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2012.11.12
2度目の冬を迎える被災地〜不可欠となる継続的なPR活動
皆さんこんにちは井之上 喬です。
11月11日で東日本大震災から1年と8カ月が過ぎました。未曽有の大規模地震と津波、そして東京電力の福島第1原発事故が重なり、今も多くの皆さんが仮設住宅での生活や故郷を遠く離れた避難生活を強いられています。
10月に私が経営する井之上パブリックリレーションズ(井之上PR)の社員が、スイスに本社を置く大手製薬会社のCSR活動をサポートするため宮城県の南三陸町に出向きました。
このCSR活動は仮設住宅を訪問し、石巻発の地域コミュニティ再生プロジェクトで話題の石巻弁による「おらほのラジオ体操」を出前で実施するというもの。
2カ所の仮設住宅で実施されましたが、どちらも100人以上の皆さんが参加し笑顔の中でラジオ体操を楽しまれたようです。
この出前体操は、運動不足に陥りがちな仮設住宅での健康維持と、住民の皆さん相互のコミュニケーション促進のきっかけになったのではないかと、担当した社員も喜びを込めて報告してくれました。
徐々に減少する被災地ニュース
その一方で担当者が感想として、「当日は風が強く、東京から出かけた人間にとっては冬が足早に近づいているのを実感した」とし、「仮設住宅で2度目の冬を迎える住民の皆さんが、健康で次の春を迎えるにはどのように手伝えばいいのか考えた」と大震災から2年経とうとしている被災地のなかなか進まない復興の実態を語ってくれました。
このところ東京での被災地に関するニュースは、徐々に減少しています。
南三陸町に出張したこの男性社員の話しと現地での写真を見て復興の厳しさを感じていた時、日本経済新聞の10月29日朝刊のコラム春秋にまさしく彼から見せられた写真と同じ状況が書かれていることにびっくりしました。
その内容は、「復興の魁(さきがけ)は料理にあり」。関東大震災ですっかり焼け野原と化した東京の銀座で、ただ1軒、掘立小屋にこんな貼り紙を張った居酒屋が商売を始めた――と水上滝太郎の小説「銀座復興」を紹介したもので、店のおやじさんと客たちの復興にかける意気込みは南三陸町の今をオーバーラップさせるものでした。
コラムは「街が根こそぎ消えた宮城県南三陸町の志津川地区を歩いてさえ、香り高いコーヒーを飲ませるカフェに出合うことができる」と人々が生きることの逞しさを伝えています。
また、「震災から1年半を過ぎたのに、なお「仮設」で頑張るしかない現実も、そこには横たわっている」とし、国の復興予算が必要なところには行き渡らず、全く別の目的に使われるなどの矛盾にさいなまれながらも、必死に自立を探る被災地の姿も伝えています。
写真は1)被災当時のテレビの映像と同じ今の被災地の状況と、2)仮設の商店街である「南三陸さんさん商店街」の入り口。
弊社担当者が南三陸を訪れたときは、前日までの悪天候と大潮の影響か、地震で地盤沈下した道路が冠水しているところも多く見られたようです。
しかし、南三陸さんさん商店街では、プレハブではあるものの食堂から魚屋さん、洋品店、電気屋さん、文房具屋さんなど多くの商店が並び、皆さん元気よく復興に向け着実に前進していると感じたとのことでした。
陸前高田市が米国から招いた広報パーソン
一方、同じ被災地の岩手県陸前高田市では、妻を津波で亡くした戸羽太市長が新しい試みを行っています。
それは、被災地情報を積極的に世界に伝えるために、11月から海外広報ディレクターとして米国人女性のアミア・ミラーさんを招いたとするもの。
ミラーさんは、両親の仕事の関係で18歳まで日本で過ごした経験を持ち、震災直後はボランティア団体の通訳としてとしては来日し避難所回りをしたり、その後もあの奇跡の一本松の保存募金を海外に呼びかけたりしていたそうです。
共同通信の記事によれば「できるだけ陸前高田に足を運んで、正確な情報を積極的に伝えたい。それがふるさと日本への恩返しになるから」と抱負を語っています。
しかし、東京などから被災地に派遣されていた記者もその多くは戻っているようで、被災地の現状を知る機会がだんだん少なくなっていることが危惧されています。
被災地はこれから厳しい冬を迎えます。多くのジャーナリストやボランティアが現地を離れる中、日本人として、2度目の冬を迎える被災地の現実に改めて目を向けなければとの思いを強くしています。
同時に、パブリック・リレーションズ(PR)の仕事に携わる立場から、被災地からの情報発信の必要性を痛切に感じてもいます。
多くの課題を抱える被災地には、まだ伝えられなければならないことが数多くあるからです。