パブリック・リレーションズ

2005.11.18

パブリック・リレーションズの巨星たち2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891-1995)、「米国大統領とバーネイズ」

こんにちは、井之上喬です。

いかがお過ごしですか。

先週に引き続き、今日は80年間にわたって活躍したエドワード・バーネイズの「米国大統領とバーネイズ」について考えてみたいと思います。

バーネイズは多くの政府機関や個人の政治家に対してカウンセリングを行いました。その中には米国大統領や大統領直属の機関もあります。

はじめて大統領直属の政府機関で活動したのは、当ブログ10月31日号にも書いたパブリック・インフォメーション・コミティ(Committee on Public Information = CPI)における活動です。CPIは第一次世界大戦中の1917年、ウッドロー・ウイルソン(Thomas Woodrow Wilson)大統領のもとで米国の参戦に対する米国内の賛同を得るために組織されたもので、委員長であるジョージ・クリール(George Creel)にちなんでクリール委員会(Creel Committee)とも呼ばれました。マスメディアを総動員してパブリシティを広範に展開したこの活動では、100もの外国紙にプレスリリースを配信したり、19種類の言語による独自の機関紙を発行するなど、移民国家としての徹底した対応を行い、世論の同意を得ることに成功しました。

このCPIの活動を通して、それまでの計画性を持たないパブリシティが実質的な効果を生む戦略的手法として構築されました。CPIにより開発されたこの手法はシステム化され、戦時における戦略構築の雛形として、米国が第一次大戦以降かかわった戦争に使用されてきました。

大統領とはじめて直接のかかわりを持ったのは、1924年の共和党のカルヴァン・クーリッジ(Calvin Koolidge)の大統領選挙戦のときでした。任期中に急逝したウォーレン・ハーディング(Warren G. Harding)大統領の政権で副大統領を務めたクーリッジが大統領職にあった時点で行われた選挙でした。「堅物」イメージが強いクーリッジでは再選が危ういと考えた側近たちが、彼のイメージ・チェンジをはかるためにバーネイズに声をかけたのです。

バーネイズは、全米が注目するイベントでクーリッジが笑顔を見せる姿を演出すれば、堅物のクーリッジからソフト・イメージをもったクーリッジにイメージ・チェンジできると考え、当時注目を浴びていたセレブリティを選びました。アル・ジョンソンやドリー・シスターズなど当時のブロードウェイの歌手や俳優など大スターたちを大統領の朝食会に招待したのです。

朝食会では相変わらず無表情のクーリッジでしたが、ホワイトハウスの庭で歌手のアル・ジョンソンが、選挙キャンペーンのスローガンである「クーリッジ再選!」を繰り返し歌いあげると、普段笑わない彼の顔に笑みが浮かびました。その瞬間が激写され、バーネイズの思惑通り全米の新聞が写真入の記事で取り上げたのでした。かくして3週間後の選挙では見事に圧勝し、クーリッジは第30代米国大統領となったのです

しかし、大統領とかかわり成果をあげられなかった仕事もあります。世界の経済恐慌を受け不景気が本格化し始めた頃、バーネイズは当時のフーバー(Herbert Hoover)大統領によって緊急雇用委員会の委員に任命されました。社会保障や公共事業など社会主義的な考えに基づいた活動を容認しない大統領の下で講じられた戦略は、どれも中途半端なものばかり。ワーク・シェアリングや賃金分配などの試みを行いましたが、結局は労働者側の負担増となり景気回復につなげることはできませんでした。

そのような状況で迎えた32年の大統領選挙では、フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)が圧勝し、フーバーが再選することはありませんでした。パブリック・リレーションズの実務家の役割について、バーネイズは後の著書で「戦略構築から関わり、戦略を正しい方向へ導かなければ、たとえ十分なコミュニケーション・チャンネルの協力体制があったとしても成果は上げられない」と振り返っているように、抜本的な改革が必要なときこそ、その道のプロフェッショナルの忠告を聞き入れ、物事に取り組まなければならないということなのかもしれません。

政治的なイデオロギーがからんだ例として、50年代にアイゼンハウアー(Dwight D. Eisenhower)政権と、彼のグアテマラのクライアントであるUnited Fruit Company(当ブログ11月4日号に紹介)に協力する形で、社会主義政権の崩壊にかかわったことが挙げられます。

この時期は第2次世界大戦が終結し、米ソ超大国間の激しい冷戦が繰り広げられていました。53年にはアイゼンハワー大統領が米国情報局(USIA)を設立。同年バーネイズは、the National Committee for an Adequate U.S. Overseas Information Programと呼ばれる委員会の委員長に抜擢されました。28人のコミュニケーションやパブリック・オピニオン、外交問題の専門家で構成される超党派的なこの委員会で、バーネイズは米国の海外へのインフォメーション・プログラムにアドバイスしました。

一方、グアテマラでは44年以降、アレバロ政権下で社会主義改革が実施され、United Fruit Companyとの対立を深めていきました。そして51年、ジャコモ・アルベンスが後継者として大統領に就任するや税金未納を理由に同社の所有地を没収し始めたのです。これに対抗するために、バーネイズはニューヨーク・タイムズやタイムなどの記者を現地に呼び、その事実に関する報道を大々的に展開し、米国内での認知度を高め、世論を味方につけました。

54年6月、アイゼンハワー大統領は、共産主義傾向を強めるアルベンス政権に対する非難声明を発表しますが、アルベンスはその非難声明を無視します。それから2週間後、ホンジュラスで編成されたカスティロ・アーマス率いる軍隊がグアテマラに上陸。アルベンス政権を倒し、自らアーマス政権を樹立したのです。

振り返ると、バーネイズは40年代前半からUnited Fruit Companyとかかわり、同社が生産するバナナの米国内での大量消費の喚起に貢献。しかし東西冷戦の真っ只中、共産主義が中米諸国に徐々に浸透してきたこの時期、グアテマラの政権との対立は同社のビジネスへ深刻な影響を与えました。そのような状況の中で、米国政府に協力する形で政治的にもかかわることになったのかもしれません。

バーネイズはその他にも、F・ルーズベルト大統領夫人のエレノア・ルーズベルト、国務省や財務省、商務省などへのアドバイスも行いました。

このように彼は多くの政府機関や個人の政治家に対してカウンセリングを行いましたが、大統領や、政府機関などとのかかわりや活動をとおして、それらがいかに国益を左右するものであったか推しはかることができます。

彼のかかわったプロジェクトの中には、課題を残す活動もありましたが、パブリック・リレーションズにいかにリアル・タイム性が求められ、その仕事が奥深く幅の広い多岐にわたった活動であるかが理解できると思います。

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