パブリック・リレーションズ

2005.10.31

パブリック・リレーションズの巨星たち2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891-1995)

こんにちは、井之上喬です。

今日は10月の最終日です。11月は衣替えの時期でもあるので、これを機に、このブログを週末の空いている時間によりリラックスして読んでいただけるよう、アップデートを今までの毎週月曜日から、毎週金曜日に変更することになりました。というわけで、次のアップデートは今週の金曜日、11月4日となります。これからもご愛読よろしくお願いします。

1995年3月9日、パブリック・リレーションズの先駆者、エドワード・バーネイズ(Edward L. Bernays)が世を去りました。当時IPRA〈国際PR協会〉の会合に出席していた私は、他のメンバーと共に黙祷を捧げたことを覚えています。その時点では彼の偉大さをあまり実感することはありませんでしたが、2001年PHP研究所より出版した『入門・パブリックリレーションズ』で彼の残した足跡をたどっていくうちに彼の真の偉大さを知るようになりました。

今日は初回のアイビー・リーに続き「パブリック・リレーションズの巨星たち」の第2弾としてパブリック・リレーションズに行動科学や社会科学の手法を取り入れ理論体系化したエドワード・バーネイズの功績を取り上げたいと思います。「パブリシティはアートである」とアイビー・リーは双方向性の性質を持ったコミュニケーションをいち早く実践しましたが、その活動に形を与え体系化したのがバーネイズであるといわれています。

80年に及ぶ彼の活躍を一度では記しがたいので「その軌跡」「社会や組織体に与えた影響」「米国大統領とバーネイズ」「「ゲッペルス?プロパガンダの恐ろしさ」「PR教育者としてのバーネイズ」の5回に渡って紹介していきたいと思います。第1回目は彼が歩んだ軌跡を追いながら彼の人生の全体像を眺めていきます。

エドワード・バーネイズは、1891年11月22日、オーストリアのウィーンで生まれました。彼が1歳になるとき一家は米国、ニューヨークへ移住。父はニューヨークの農産物取引所で穀物の輸入業者として活躍しました。母は高名な精神分析医、シグムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)の妹であり、フロイトはバーネイズの父の妹と結婚したので、フロイトは母方の伯父であり父方の叔父でもありました。バーネイズが行動科学や社会科学などの学問に強い関心を寄せたのもフロイトの影響が大きかったといわれています。

後にニューヨークの農業大学に進み、卒業後 National Nurseryman で記者職を経験後、the Medical Review of Reviews and the Dietetic and Hygienic Gazetteで編集の仕事に携わりました。そして13年、22歳になった彼は初めてのプロモーションを手がけます。
13年、性教育のために書かれた演劇 ‘Damaged Goods’をプロモートする手法として現在では一般化されているスポンサー制を初めて導入しました。”Medical Review of Reviews Social Fund”を設立。そこで著名人で構成される委員会を設置し、メンバーシップを募り、集めた資金で製作を実現させたのです。

演劇のプロモーションで華やかな成功を味わったバーネイズは、編集の仕事には戻らずプレス・エージェントの道に進むことを決意。13年から18年にかけて、それまで米国で馴染みのなかったニジンスキー主演のロシアバレーなど、ブロードウェイで数多くの映画や演劇などのプロモーションを手がけ大きな成功を収めました。この経験からメディアが人々の考え方に与える影響がいかに大きいかを実感します。

20世紀初頭、自己防衛的な対応としての導入が始まったパブリック・リレーションズは、第一次世界大戦を迎えて戦費調達のための活動が中心となり、強力な説得型の手法を用いました。その概念は現代で使われているところのプロパガンダ的なもので、固定的な目標のため組織化された一方向型のプロモーション活動は、パブリック・リレーションズの発展形態としては未熟な段階にあったといえます。

その象徴的な活動ともいえるのが、17年、時の大統領ウオードロー・ウイルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856-1924)により設立されたパブリック・インフォメーション・コミティ(Committee on Public Information = CPI)です。クリール委員会(Creel Committee)とも呼ばれた、ジョージ・クリール(George Creel, 1876-1953)を委員長とするその委員会は、全国的なパブリック・インフォーメーション活動を展開し、戦争活動に賛同する世論を形成する活動を行い、世論を味方につけることに成功しました。
バーネイズは18年からメンバーとしてその委員会に参加し、プレス・エージェントの経験を活かしながら世論形成の手法を学んでいきました。

クリール委員会の活動を通じて多くのプラクティショナー(実務家)を輩出し、戦後20年代のパブリック・リレーションズは黄金期とも言われる急成長期を迎えます。これらのなかにはバーネイズを始め、CPI副委員長で30年には、自らPR会社を創設し、やがて大手会社に仕立てたカール・バイヤー(Carl Byoir, 1886-1957)などの姿もありました。

バーネイズはクリール委員会の活動を通して、戦時中に使用した世論形成の手法が平常時の政治活動やビジネスにも有効であると考え、19年にはニューヨークに米国内で7番目となるパブリック・リレーションズのオフィスを設立し、パブリシストとしての道を歩み始めました。

22年、彼はドリス・フライシュマン(米国で初めて夫婦別姓を名乗った女性)と結婚。ドリスはパートナーとして、62年に引退するまで、Edward L. Bernays, Counsel on Public Relationsの経営に参加し、バーネイズと共に考え行動しました。その鋭い洞察力と判断力でパブリック・リレーションズの基礎作りに大きく貢献したといわれています。

20年代前半、バーネイズは伯父であるフロイトの英語訳本であるGeneral Introduction to Psychoanalysisの出版に協力し、フロイト理論の米国での普及に貢献。フロイトとの関わりによって、バーネイズの思想家、理論家としての評価は高まったともいわれています。
23年、パブリック・リレーションズの最初の本として知られるCrystallizing Public Opinionを出版。そのなかで、業界で最初にパブリックリレーションズ・カウンセルという用語を使用し、それまで曖昧であった業務範囲や手法そして職業倫理について明文化し、パブリック・リレーションズの理論と実践には社会科学の知識が必要であると述べました。

また、アイビー・リーの「パブリックの知らされる権利」を一歩進めて「パブリックは理解されなければならない」とし、情報発信者と受信者の双方とのコミュニケーションを図るツーウェイ・コンセプトの概念を初めて紹介しました。そして、パブリックリレーションズ・カウンセル(実務家)は組織体とパブリックのメディエータの役割を果たすとの理論を展開させました。

初版から70年を経た今もこの考え方がパブリック・リレーションズで実践されていることを考えると彼の理論が当時如何に先進的なものであったかが見てとれます。

後日、ナチ・ドイツのプロパガンディストで宣伝担当相のゲッペルスは、この本を愛読し、そこから得た情報を基に、ドイツ在住のユダヤ人排斥キャンペーンを行ったといわれています。
1928年にPropaganda を出版。人の考え方は与えられた情報により形成されるとする理論とそのメカニズムを記したこの本は、当時プロパガンダに対する不信感を抱いていた米国で大論争に発展しました。

バーネイズは、これらのほかにもいくつかの著書を残しています。45年には Speak Up for Democracy、52年に教科書的な著書 Public relations、55年に妻ドリスと共に著者・編者として参加したエッセイ集The Engineering of Consentを出版し、65年には自伝としてBiography of An Ideaを出版しています。

また彼は、パブリック・リレーションズの普及にも大きな足跡を残しています。1923年ニューヨーク大学で米国における最初のパブリック・リレーションズのコースで教鞭をとり、1947年には、ボストン大学で同じく米国で最初のパブリック・リレーションズ学部をスタートさせています。また、1939年、妻のドリスと共にパブリック・リレーションズの業界として初めてニューズレターContactの発行を開始しています。

80年に渡るバーネイズの活動範囲は多岐にわたり、CBSやジェネラルモーターズなどの大企業、数々の政府機関、フーバー、F・ルーズベルト、アイゼンハワーなど歴代米国大統領へのカウンセリングを行うなど、彼の与えた影響は政界や財界にとどまらず社会全体に及んでいます。これらについては後日詳しく述べたいと思います。

バーネイズは79年にYour future in a public relations career、86年にThe Later Years: Public Relations Insights 1956-1986を出版するなど、晩年も執筆や公演などパブリック・リレーションズの発展、普及のために精力的に活動し、95年に103歳で世を去るまで、その生涯をパブリック・リレーションズに捧げました。

バーネイズは20世紀初頭に登場したパブリック・リレーションズの黎明期に活動を始め、成熟期にいたるまでとどまることなく活躍し続け、長きにわたりパブリック・リレーションズの成長と発展に貢献し続けた唯一の実務家といえます。

1990年には、『ライフ』誌の「20世紀の最も重要な100人のアメリカ人」の一人に選ばれています。

次回は、バーネイズが「社会や組織体に与えた影響」について考えていきたいと思います。

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