交遊録

2011.12.26

ナレオ三田義昭さんの想い出〜クリスマスに、その生と死

皆さんこんにちは井之上喬です。

先週から今週にかけて街はクリスマスでにぎわいました。イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスでは、2000年以上にわたってキリスト教徒だけではなく世界の多くの人たちがこのスーパースターの誕生を祝います。

ちなみに日本ではクリスマスは12月25日のキリスト降誕の日で終わると考えられていますが、日本以外の多くの国では12月25日に始まり1月初旬のキリストが始めて公の場に姿を現した「主の公現」(移動主日なので今回は1月8日)までの期間を「降誕節」として祝っています。

今日は先日亡くなった、私の学生時代の先輩でもある一人のキリスト者のお話をしたいと思います。その人の名前は三田義昭さん。三田さんのその生と死について皆さんと共に考えたいと思います。

余命あと1-2ヶ月といわれ、成人T細胞性白血病(ATL)を1年半近く生きた三田義昭さん。私は三田さんのような死を恐れず、最後まで自然体で生き抜いた人を他に知りません。

三田さんは昨年9月に恒例のナレオ稲門会主催のハワイツアーの滞在先で体調不良を訴え、帰国後の10月はじめ医師の診断で突然自分の病を知り、「余命1-2ヶ月」と宣告されます。

学生時代はナレオで活躍

三田さんは、私が学生時代に所属していたハワイアンバンドの「早稲田大学ナレオハワイアンズ」(以下ナレオ)の先輩で、私が大学1年のときのレギュラー・バンドのスチール・ギター奏者でした。

1942年7月13日旧満州の奉天で生まれた三田さんは、終戦とともに日本に引き上げ、静岡県の三島市で高校まで過ごしました。

卒業後上京し早稲田大学に入学。当時学生バンドとして一世を風靡していたナレオに入部し4年生のときにスチール・ギターでレギュラー・ポジションを獲得します。

三田さんとの想い出は尽きることがありません。学生時代からよき先輩として、おおらかで後輩の話をよく聞き、面倒見のいい人でした。また卒業後、後に社長を務める旅行会社ジャパングレーラインに就職してからも我々現役バンドのためにテレビやラジオ出演のチャンスを作ってくれたり、その後もナレオOB会や稲門会の行事などの世話人としてもよく面倒を見てくれました。

人間関係を大切にした三田さんからは早稲田大学の政治経済学部の同級生で親友の中西啓介(故人:元防衛庁長官)さんを紹介され、中西さんが困ったときの相談相手役を危機管理を扱う私に持ちかけるなど、いつも人のために役立つことを喜びとする人でした。

三田さんは、パブリック・リレーションズ(PR)の良き理解者でもありました。私の会社(井之上PR)が国際的な賞を受賞したときなども、まるで我がことのように喜んでくれました。

三田さんの急性白血病は、母親の母乳からウイルス感染する原因不明の難病。発症率は3-5%といわれ一度発症すると、骨髄移植が難しい高齢者にはほとんど死を意味する病気とされています。

再び信仰に戻

癌の宣告を受けた当初は病院に入院するものの数週間もしないうちに自らの意思で抗癌治療を止め、その後転院した東大医科学研究所付属病院(白金)での通院による自宅療養の道を選びます。

翌11月にはナレオOB会主催で「三田義昭君を励ます会」が多数の仲間の出席のもと都内で開かれました。そのときに「自分の命はあと1-2ヶ月」と告白。何も知らされないで出席した人たちを仰天させます。

挨拶に立った三田さんは、これまでの自分がいかに多くの仲間の友情に支えられてきたか、自身の人生について語ったのです。そしてこれから迎えるであろう「死」について、自分がいかにその恐怖から解放された状態にいるかを語ります。周りの人たちがしんみりする中で、本人はまるで会のホストのように明るく振舞うのでした(写真)。

「三田義昭君を励ます会」でのツー・ショット。写真右が三田さん。 同、前列左から北原忠一、松倉悦郎、梶原しげる 後列は他に榎本隆、三浦孝之の各氏 

出席者と共に、持ち込まれた楽器でジャズを歌い、外見からは判らないほど元気な姿を見せてくれたのでした。

三田さんがこのような心境になったのには理由がありました。

医師から死の宣告を受けた夜、三田さんは自宅で睡眠誘導剤を飲んでも眠れなかったといいます。しかしあることで吹っ切れたといいます。それは「神にすべてを委ねる」ことでした。そう心に決めたときから死に対する恐怖がなくなったと話すのでした。

自宅療養中は家にじっとすることなく連日東京の友人と会ったり、遠い地方の友人に会いに出かけたり、周囲が驚くほど最後までいつもと変わらない三田さんの姿がありました。

やがて新年を迎えますが、不思議なことに病院の検査の数値が正常値に戻り医師を驚かせます。奇跡的な回復を示したのです。

音楽をこよなく愛した三田さんとの最後のジャムセッションは、東日本大震災の直前に新宿「J」で開催された、我々昭和43年卒業組のライブセッション。

お祝いに駆けつけてくれた三田さん。彼が大好きなジャズの名曲「オール・オブ・ミー:All of Me」を彼の歌と一緒に演奏したのが最後の競演になりました(写真)。

写真

新宿「J」でのセッション:左から三田義昭さん(Vocal)、鈴木良雄君(Bass)、筆者(Vibraphone)

今年の7月の恒例のナレオパーティ(新高輪プリンスホテル)にも元気な姿で参加していましたが、発病後から1年たった今年の9月に体調を崩し3ヶ月間白金の病院に再入院。

本人の希望で自宅療養に戻ったものの症状は芳しくなく、退院3日後の12月9日に病院に担ぎ込まれそこで息を引き取り、69年の生涯を閉じました。

三田さんがカトリック信者であることを知ったのは、私が1985年にカトリックの受洗をしたときです。三田さんは、「実は僕もカトリックだよ」とはじめて明かしてくれました。

「あまり真面目な信者ではないけどね」と笑いながら語りかけてくれたことが昨日のようです。

長い間、信仰から遠ざかっていた三田さんは死の宣告を受け再び教会に行くようになりました。

このブログで三田義昭さんの死についてお話したかったのは、イエス・キリストが生まれたクリスマスに人間の生と死について一緒に考えてみたかったからです。

ペテロ三田義昭さんは亡くなり帰天しました。人間は死んだらそれで終りと考えがちですが、キリストの世界ではそこから本当の命、つまり永遠の命に入ります。

キリストがこの世に来た日をクリスマスとしてお祝いするのは、私たちが永遠の命に生きるため。

三田さんには残された京子夫人、立派に成人した長女の甘奈さん、長男大介君そしてお孫さんがいます。三田さんはその死によって、本当の命、永遠の命の中に生きていくことでしょう。

最後に、三田さんの告別式が行われたカトリック本所教会の葬儀ミサで、司祭が話した聖書のことばが私の心に響きます。

「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、 死ねば、豊かな実を結ぶ。自分の命を大切にするものはそれを失い、この世で 自分の命を顧みない者は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ福音書12章23-25節)

三田さん、メリー・クリスマス! これまで長い間ありがとうございました。

いつかまた天国でお会いしましょう。

(写真提供:上段:櫻井隆章さん 下段:秋田春日さん)

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