学生時代

2005.07.25

ハワイアンバンド、ナレオに染まった大学時代〜全てはパブリック・リレーションズに繋がっていた

7月18日の海の日に、「早稲田大学ナレオ稲門会」による新高輪プリンスホテル「飛天の間」でディナーショー形式のパーティが開かれました。年に一度、約700人が参加するこのパーティは、今年で9回目。都会の喧騒の中、日常とは隔離されたトロピカルで華やいだ空間のなかで久しぶりにステージに立ちました。

約3時間半のパーティは、まずウエルカム・ミュージックとして現役のハイソサエティ・オーケストラによるゴージャスなビッグバンド・ジャズ・サウンドで来場者を迎え入れ、59年に渡るナレオの歴史の中で登場した代表的なバンドがステージで演奏するという趣向。トラディショナルなハワイアンからモダン・ハワイアン、ジャズ・コーラス、また現役グループのロックと計8つのバンドが腕を競い合いました。

私たちのバンド(ナレオ・ウエーブ)は、モダン・ハワイアンで、「インヴィテーションズ」と呼ばれるコーラス・グループの楽曲やボサノバ曲を演奏しました。編成は、スチールギター、ドラムス、ベース&ヴォーカル、ギター&ヴォーカル、キーボード&ヴォーカル、パーカッション&ヴォーカル、ビブラホン&ヴォーカルそして、女性ヴォーカルの8名です。

私が初めて早稲田大学ナレオハワイアンズ(現在はザ・ナレオ)と出会ったのは、都立立川高校3年の8月。当時、オープンしたばかりの八王子の市民会館で、「早慶軽音楽の夕べ」というコンサートに、友人に誘われて行ったのがきっかけです。出演者は、当時プロのジャズシンガーだった、藤田功(現在作曲家の曽根公明さん)と築地容子さんに加え、慶応大学のビッグバンド、ライトミュージック・オーケストラと早稲田大学ナレオハワイアンズでした。なかでもナレオハワイアンズの演奏は、その音楽のレベルの高さやステージの華やかさで、音楽好きでもあった私をたちまちのうちに虜にしてしまいました。

そのときのナレオは、スチールギターは、当時天才奏者として名を馳せた衣川豪一さん、歌は、現在ハワイアン界で歌手として名声のある小出茂さん、司会は後でフジテレビのアナウンサーになった露木茂さんといった、当時学生バンドの頂点にいた人たちでした。「学生バンドがここまで上手に演奏をするのか!」、夏の終わりにナレオ・サウンドが私に与えた衝撃は、ちょうど今の若い人が初めて好きなアーティストに出会ったのと同じようなインパクトを持っていたと思います。

ちょうどその頃、高校時代に熱中していた水泳で挫折感を味わい、これから本格的な受験勉強を始めなければならない大切な時期でしたが、自分自身の目標を失っていました。そんな私にとってナレオとの出会いにより「興味を持ったら、自分でもやってみる」という生来の気性で、早速、3年の水泳部の面々9人でハワイアンバンドを結成。11月の文化祭への参加に間に合わせようと、受験勉強そっちのけで、毎日終電ぎりぎりまで練習したものです。

猛烈な練習の甲斐あって、文化祭でコンサート会場となった講堂での私たちのステージは大成功。悪いことにメンバー全員がその余韻に浸り過ぎ、12月半ばまで勉強することはありませんでした。かくして水泳部9人の仲間は全員浪人する羽目になりました。

翌々年に早稲田大学に入学しましたが、入学して真っ先に目指した場所は、ナレオハワイアンズが連絡場所にしていた喫茶店。そこには、現在、東洋医学の権威として活躍している村尾敞英(現村尾敞玄、八王子のコンサートでも演奏していた人)さんが、真白いアイビールックのボタンダウン・シャツを着てタバコをふかして座っていました。大学生には見えないほど洗練された、ビブラホン奏者でもあった村尾さんの粋な姿がとてもカッコよかったのが今でも目に焼きついています。

終戦直後にアメリカから最初に入ってきた音楽は、ハワイアン音楽で、音楽に飢えていた多くの若者が飛びつきました。日本でたちまち過熱し、灰田勝彦や浜口庫之助、バッキー白片、大橋節夫などのミュージシャンにより大ブームを起こしたものです。

そんなわけで、私が入学した64年当時は、ナレオハワイアンズのレギュラー・メンバーといったら花形的存在。全国から歌やハワイアンが好きな人たちがナレオ目指していたのでした。4年になってもレギュラーになれない人が多い、そんなナレオで、幸運にも大学2年のときに憧れのレギュラー・メンバーになるチャンスがやってきたのです。

私の2番目の姉の夫がコーネル大学で客員教授として教鞭を執っていたときに、姉の強い助言で同大学への留学準備をしていた春のことでした。私の一級上の先輩、安藤紘平さん(現早稲田大学教授)がフランスのソルボンヌ大学へ留学することになり、急遽安藤さんが担当していたビブラホン(vibraphone)のレギュラーの椅子が空いてしまったのです。突然の先輩の呼びかけで、私はためらうことなく留学準備を取りやめ、レギュラー入りを承諾したのでした。当時の私にとっては、ナレオのレギュラーに、しかも2年でなることのほうがはるかに魅力的でした。

その夏にはレギュラー兼バンドボーイとして全国ツアーに参加。3年生になるとスケジュールや資金を管理するプレイング・マネジャーを担当し、年間120回ものステージを全国で展開。7割がコンサート、3割がダンスパーティー、テレビ・ラジオにも年間に10回近くは出演していました。3年間の演奏旅行で訪問した都市は実に延べ120ヶ所を越えていました。

すべてが、何をしても楽しかった演奏旅行。いろんな人たちに会えました。ステージの合間の時間を使っては地元の名所旧跡を訪ねるなど、観光名所なども一通り巡ることができました。春・夏の休みには、いつも、モダンジャズ・グループやハイソサエティ・オーケストラ、ニューオルリンズ・ジャズクラブのメンバー達と全国をツアーしていました。

当時のこれらの仲間には、同学年では、長年NYで活躍し、現在の日本を代表するベーシスト鈴木良雄君(当時、ピアノ)、新宿でジャズクラブ「J」のオーナーをやっている幸田稔君(アルトサックス)、1?2級下にはサブマネジャーをやっていた森田正義君(現タモリ)、在学中に渡辺貞夫クワルテットに参加していた、ギターの増尾好秋君、レコード・ディレクターとして名をはせた、ソニー・レコードの伊藤八十八君(ピアノ)、今は竹山洋(映画:ほたる、NHK大河ドラマ:利家とまつ、秀吉)として超人気脚本家になった武田淳一君(ベース&マネージャー)などがいました。

ナレオのほうは、ナレオハワイアンズの創始者的な存在のスティールギター奏者で、弁護士のお父さんの跡継ぎをしないで、法学部大学院時代もプロ活動をし、初心を貫き現在もプロとして活躍しておられる、白石信(白石信とナレオハワイアンズ)さん、カメラマンの浅井慎平(以下敬称略)、アナウンサーでは露木茂を始め、小林大輔、松倉悦郎、(以上フジテレビ)、また、柏村武昭(現防衛庁政務官、参議院議員)、宮川俊二、梶原しげる(当時、梶原茂)、テレビ・映画音楽などの作曲家、本間勇輔、CMディレクターの川崎徹、作家の服部真澄などが輩出されています。

思い出に残るコンサートといえば、今で言う若い人にはなじみがないかもしれませんが、その頃の御三家の一翼を担っていた、西郷輝彦(キムタクのような人です)と一緒のステージに上がったことでした。超人気歌手と学生バンドが何故共演することになったかというと、当時、西郷輝彦はフランク・シナトラに続く高人気でハワイ出身の歌手ドン・ホー(バックバンドとコーラスはアリーズ)に傾倒しており、われわれがそのスタイルを追求する数少ないグループだということで、日本テレビに請われ90分番組の出演が決まったのでした。当時、新しかった渋谷公会堂での録画中継番組で、特別の扱いを受け感激しました。信じられない話ですが、つい先日、全く偶然にも、このときナレオとの窓口役をやっておられた日本テレビ、ディレクターの花見さんと、38年振りに渋谷の行きつけのカラオケ・バーでお会いしました。実に不思議な再会でした。

また、いろいろな大学の学園祭に招かれましたが、とりわけ思い出深いのは、66年のビートルズの武道館公演の翌年、明治大学の学園祭によばれ同じ武道館で演奏できたことです。

大学一年にクラブの門をたたいて以来、学生生活のほとんどをナレオでの音楽活動に捧げ、完全燃焼した4年間となりました。特に、ナレオのプレーイング・マネージャーをつとめ、多くの人々と出会えたことは、後にパブリック・リレーションズの世界に入ってからの貴重な財産となりました。

そして、ステージのスケジューリングや資金のやり繰を行う中で、交渉(コミュニケーション)術や企画力、ビジネスセンスなども自然に身についたと思います。また、いい演奏を心がけるためには、常にステージ上から観客の反応を見なければいけません。プレイヤーとして、双方向的な姿勢が醸成されていたともいえます。これらの多くの経験が、その後の私の職業観に大きな影響を与えていたと思います。大学卒業後入社した会社を3ヶ月で飛び出し独立するといった一見無謀なことも、これらの経験がなかったらその一歩を踏み出すことができなかったかもしれません。

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