交遊録

2005.05.30

ヤマハグループを世界に導いたカリスマ経営者、川上源一さんを偲ぶ

5月25日はヤマハの中興の祖、川上源一さん(1912-2002)の3周忌でした。私の20代に、川上さんと出会う事ができたのは本当に幸運でした。

3年前の7月、前社長の石村和清さんから招待を受け、浜松で行われた川上さんとの「お別れの会」に出席させていただきました。4,000人を超える弔問客すべてを収容するホールを借りきったその会は、まるでコンサートのようで、川上さんの生前を彷彿とさせる型破りなものでした。

川上源一さんは、日本の戦後高度成長期に、類まれなる経営手腕でヤマハを世界的な企業グループに仕立てた人物です。
私がまだ25歳ぐらいの駆け出しの頃、何人かの外部発案でヤマハが提唱するポピュラー音楽の普及のため、川上さん主催で民放ラジオ・プロジューサー会を定期開催しました。川上さんは毎月欠かさず浜松から上京し、新曲の紹介や意見交換を行い、年齢や立場の違いなど一向に気にせず、自分がいいと思ったら誰にでも、ためらわず真剣に接する人でした。

当時の日本楽器製造(現ヤマハ株式会社)はソニー、資生堂と並ぶ三大花形企業として急成長を遂げていました。私は学生時代に音楽をやっていたこともあり、就職先に日本楽器を志望しましたが、クラブ活動に明け暮れていたため成績が悪く、書類選考にもれました。そんな中、クラブでのプレーイング・マネジャーの実績が買われ、幸運にも社長推薦で入社できました。しかし、大きな歯車の中に組み込まれるのがたまらず、入社後三ヶ月で退社してしまいました。その後独立し、今の会社を始めましたが、最初の顧客はヤマハでした。川上さんが社長として最も輝いていた70年代、ヤマハが戦略的な国際展開をするなか、さまざまなプロジェクトで、ヨーロッパやオーストラリアに派遣され鍛えられていったことが懐かしく想い出されます。

織田信長的な、天才的で強烈な個性のもとで、スケール感のある事業が次々に打ち出されました。楽器、スポーツ用品、レジャー施設の拡大、ヤマハ音楽教室の国内・海外展開、そして吉田拓郎、中島みゆきなどの多くのポピュラー音楽家を輩出したポピュラー・ミュジック・コンテスト(ポプコン)や世界歌謡祭の開催。また、ヤマハ発動機における、オートバイ事業を核にしたヨット、パワーボート、ジェットスキーなどマリン事業へも参入を果たし、情熱的で心ときめかせる事業展開には目を見張るものがありました。
川上さんの事業のユニーク性は、「人間が生きていくための生活必需品は一切作らず、ひたすらその生活や人生を豊かにする製品やサービスを提供する」という点にあり、この特色こそが、ヤマハグループを世界にも類を見ない特異な存在にした所以ともいえます。

川上さんの「スピード経営」は、1968年の日本初の株式時価発行にみられるように、グローバル時代のCEOに必要とされる経営戦略構築力と経営遂行上の迅速な意志決定など、21世紀の企業経営にも通用する手法でした。

音楽家を目指していた若き日のソニーの大賀さんと川上さんとの交流は、一部の人には良く知られています。大賀さんのソニーでの経営手法は、川上さんのそれと極めて近いものがあったといえます。両者の経営戦略に共通するのは、「自社のブランドを最高のものにする」ことでした。

以前、大前研一さんの著書『やりたいことは全部やれ』(講談社)の中で、「戦後の経営者の中で誰が一番すごかったか、という質問を受けたら、私は迷わずにヤマハの川上源一さんではないかと答える………創造的破壊力においては、誰をも寄せ付けないくらい強烈なイノベータであった」とその印象が語られていたのを思い出します。

いまさらながら驚くべき先見性と信念、そしてそれらを抱合する独自の経営哲学をもった、そんな川上さんの下で、私の青年期、身近に仕事をさせて頂いたことに感謝するのみです。

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