パブリック・リレーションズ

2005.12.10

パブリック・リレーションズの巨星たち2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891-1995)、「教育者としてのバーネイズ」

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

今週は、エドワード・バーネイズについての最後のお話しです。ここではパブリック・リレーションズの実務家バーネイズのもうひとつの顔、「教育者としてのバーネイズ」を見ていきたいと思います。

バーネイズは、それまでアイビー・リーなどが自らの職業の呼称としていた「パブリシスト」を初めて「パブリック・リレーションズ・カウンセラー」と名づけました。そして組織体とそれを取り巻くパブリックの諸関係(リレーションズ)についてアドバイスを行う実務家として、範囲と役割を明確にし、その技法を理論的に体系化したのです。またパブリック・リレーションズの重要性に早くから気づいていたバーネイズは、初めて学術的地位を確保し、その普及・発展のための教育に積極的に関わりました。

バーネイズは1923年、米国で最初のパブリック・リレーションズのコースで教鞭をとりました。同年に出版した『世論の覚醒化』(’Crystallizing Public Opinion‘)のプロモーションも兼ねて大学で教鞭をとることを考え、ニューヨーク大学のジャーナリズム学部長のジェームズ・リーにコース新設を説得しました。度重なる説得の末、ニューヨーク大学で米国初の「パブリック・リレーションズ」のコースが誕生しました。伯父の心理学者フロイトを世に送り出したといわれるバーネイズならではの着想であったかもしれません。

また47年、ボストン大学で米国初のパブリック・リレーションズ学部をスタートさせました。61年にケンブリッジに自宅を構えてからもバーネイズは同大学でたびたび講演し、その活動は晩年まで続いたといいます。更に同大学に奨学金基金(The Edward L. Bernays Foundation Primus Inter Pares Award)を創設し大学院生の教育を支援しました。現在も毎年大学院生を対象に奨学金が提供されています。この努力が後に評価され、同大学から名誉博士号を贈られました。

バーネイズは、パブリック・リレーションズの質の向上には協会を設立し、実務家に求められる明確な職業規範を確立する必要があると考えていました。そこで27年にアイビー・リーを含む13人で協会設立のための委員会を発足させますが、実現に至らずその委員会は解散してしまいます。

その後、36年にニューヨークを拠点とする実務家たちにより設立されたNAAPD(National Association of Accredited Publicity Directors)と、39年カルフォルニアでレックス・ハーロウ(Rex Harlow)により設立されたACPR(American Council on Public Relations)が48年に併合され現在のPRSA(The Public Relations Society of America:米国パブリック・リレーションズ協会)が誕生しました。しかしメンバーの質を重視のバーネイズの考えは、会員数優先のPRSAの方針と相容れず参加することはありませんでした。

しかし40年後の76年、バーネイズによるパブリック・リレーションズへの貢献が高く評価され、彼はPRSAからPRSAの最高賞である「Gold Anvil」を授与されると共に、PRSA認定の実務家資格のAPR(Accredited in Public relations)のタイトルも授与されました。そして90年には同協会の功労者としてAPRフェローの称号も授与されています。

またバーネイズはパブリック・リレーションズの普及のため、執筆活動も積極的に行いました。23年出版の『世論の覚醒化』や28年に出版された『プロパガンダ』など、時代と共に進化するパブリック・リレーションズを考察した本や出版物を時代の節目ごとに発表しています。

なかでも52年に出版された『パブリック・リレーションズ』(‘Public Relations’)では、パブリック・リレーションズの登場・発展の歴史を紹介・考察すると共に、彼の関わったプログラムをケース・スタディとして取り上げ、分析・評価方法を示し、読者が型にはまることなくこれらのケース・スタディを応用し、積極的に活用することを勧めています。

またバーネイズは、専門家にふさわしい高度な技術と人格を持つ実務家を確保するためには資格制度が必要であると考えていました。そのために医師や弁護士と同等な公的資格制度の実施を訴え、92年、法案として議会に提出しましたが廃案となってしまいました。その後も法案提出を試みましたが結局機会を得ることなくこの世を去ります。

ちなみに米国では現在、PRSAが64年から独自に実施してきた民間の認定制度(APR=Accredited in Public Relation)は、98年にPRSAをはじめとする10の団体が参加する「ユニバーサル認定プログラム(Universal Accreditation program)」へと形態を変え、パブリック・リレーションズのプロフェッション獲得者としてAPRの称号を贈られています。

パブリック・リレーションズを専門領域として確立させたいとのバーネイズの長年の熱意は、彼のプロフェショナルとしてのパブリック・リレーションズの実践面における輝かしい業績に支えられた自負と、結果を出すことのできるパブリック・リレーションズに対する強い信頼と誇りの表れであったといえるかもしれません。「明確な調査・分析と豊かな発想力で取り組めば、どのような困難な問題も解決に導くことができる」とパブリック・リレーションズの黎明期からその普遍性に着目していたのです。

これまで過去5回にわたり(10月31日、11月4日、11月11日、11月18日、12月2日)エドワード・バーネイズのパブリック・リレーションズにかけたその生涯を見てきました。バーネイズは1910年代から活動し始め、103歳のその生涯を終えるまで実に80年以上にわたりパブリック・リレーションズの世界に影響を与え続けました。その功績は多岐にわたって計り知れないものがあります。
今回のシリーズで彼を知るにつれ、35年間パブリック・リレーションズ実務家として様々な問題に取り組んできた私自身の考えが幾度となくそこに投影されていることに、同じ道を歩むものとして深い感銘を受けます。

95年、人生に幕を閉じる3年前AEJMC( Association for Education in Journalism and Mass Communication)での講演で、バーネイズは次のような言葉を残しています。「私は黎明期から米国社会で大きな役割を果たすようになったパブリック・リレーションズの今日まで、この仕事にかかわってこられたことを幸運に思います。私はこの職務とパブリック・リレーションズが民主主義社会に多大な貢献を果たしたことに高い誇りを持っています。パブリック・リレーションズには世論の同意を得る手法が用いられています。そのベースにあるのは『真の民主主義社会において、全ては民意によらなければならない』というトーマス・ジェファーソンが示した民主主義の原則です」。

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