パブリック・リレーションズ

2006.02.17

パブリック・リレーションズの巨星たち 3情熱的な戦略家、カール・バイアー

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

今回は久しぶりに、「パブリック・リレーションズの巨星たち」第3弾として、カール・バイアー(Carl Byoir, 1888-1957)をご紹介したいと思います。日本ではあまり知られていませんが、第一次大戦中CPIで副委員長をつとめたPRの実務家。28歳でパブリック・リレーションズの世界に身を投じ、その大胆な発想と戦略で数々のプログラムを成功させ、エドワード・バーネイズと並んでパブリック・リレーションズの発展に大きく貢献した人物です。

バーネイズより三歳年上のカール・バイアーは1888年6月24日、ポーランドからのユダヤ系移民であるベンジャミン・バイアーとミナ・バイアーの間に6人兄弟の末っ子としてアイオワ州デモインに生まれました。ロシアの圧政に苦しむポーランドから移住した両親からは「自由が謳歌できる素晴らしさ」を学び、アメリカへの愛国心を身につけたようです。

家計の苦しい家庭に育ったバイアーですが、ビジネスへの情熱と才能は若い頃から際立っていました。高校2年のときにはIowa State Register(州のインフォメーション・センター)の編集部でアルバイトを始め、翌年には授業のあとに駆けつけ、記者として活躍。高校卒業後すぐに務めたthe Waterloo Times-Tribuneでは編集長の突然の死去と同時に大抜擢され、なんと18歳で編集長に就任。15ヶ月にわたりその職務を果たしたのです。
1907年、アイオワ州立大学に入学。学費捻出のためアルバイト記者として地元の新聞社で精力的に活躍。この経験を通して、「ニュース性が高い記事でなければ編集段階でボツにされてしまう」と厳しいジャーナリストの視点を養いました。
14年、ウィリアム・ハースト経営の雑誌社、ハースト社に実習生として入社。ここでも才覚を発揮し、3ヶ月で販促担当のマネジャーに昇格。この頃から「人々の心を動かし目的を達成する」パブリック・リレーションズの発想を実行していきます。当時100万部から79万部まで部数が落ち込んでいた雑誌コスモポリタンを、わずか3ヶ月で106万部にまで拡大させました。

彼の商才は卓越していました。6週間にわたり地方ディストリビュータの現状を細かく調査。彼らの動機づけにはインセンティブが必要と判断し、優勝者に賞金を授与するコンテストを開催したのです。大規模、小規模ディストリビュータ双方に優勝のチャンスを与えるため、販売総額と売上増加率の2つの指標で成績を管理し、各々の競争心を掻き立てることに成功しました。
17年6月バイアーは、コスモポリタンの元編集長エドガー・シッソンの勧めで、エドワード・バーネイズより一足先にパブリック・インフォメーション・コミティ(Committee on Public Information = CPI)に参加し、「言葉が民衆を動かす」ことを目の当たりにします。

CPIは第一次世界大戦(1914?1918)下のアメリカにおいて、国民から戦争参加への支持の取りつけをミッションに、当時の大統領ウオードロー・ウイルソン(1856?1924)により17年に設立されました。ジョージ・クリール(1876?1953)を委員長とし、別名「クリール委員会」とも呼ばれました。CPIはメディアを総動員してパブリック・インフォーメーション活動を全米に展開、数々の新しい世論形成手法を生み出し大成功を収めました。

特にバイアーは当時300万人に達する英語を母国語としない米国市民からの支持獲得に力を発揮。全米での新聞広告掲載をはじめ、75,000人のスタッフを組織しての集会告知や当時3,000万人の観客を動員したニュース映画での告知放映など、さまざまな言語によって「戦争参加の意義」を訴え、その成功に大きく貢献したのです。

戦後の20年代、パブリック・リレーションズは急成長を遂げますが、その黄金期の礎となる多くのプラクティショナー(実務家)がCPIから輩出されました。CPIで副委員長をつとめたバイアーは、セールスや出版、記者、編集者としての経験を生かし、パブリティシティの分野で活躍します。
29年、バイアーは膿漏症を治療するため温暖な気候のキューバに渡りました。そこで地元の小さな新聞社を買収。朝刊紙の「ハバナポスト(the Havana Post)」と夕刊紙の「ハバナテレグラム(the Havana Telegram)」を発行しました。

そして翌年、後のCarl Byoir & Associatesの基礎となる会社を当地で設立。スペイン語を公用語とするキューバで英字新聞の発行部数を伸ばすため、アメリカからの観光客動員のためのキャンペーンを展開しました。温暖な気候、滞在費の安さ、アメリカ本土からの近さを強調した結果、わずか一年間で観光客数は8万人から16万5千人へ倍増。こうしてカリブ海に浮かぶ一大人気リゾートの誕生を実現させたのです。

32年には本拠地をニューヨークに移し、Gerry Swineheartをパブリシティ担当マネジャーに据え、マンハッタンの中心にオフィスを開設しました。当時のクライアントにはケベック州、北米航空協会など大きな組織が名を連ねていました。今日のPR会社のスタッフ配分のモデルとなっている「一人のエグゼクティブが一つのアカウントを担当し、必要に応じてスタッフが業務を遂行する」というルールもこのオフィスから生まれました。
30年代のアメリカ経済は大恐慌に見舞われ、独占的に富を得た電力会社や大企業へのイメージが急速に悪化した時代でした。クライアントである電力会社の経営者、ドハーティもその悪影響を受け、バイアーは彼のイメージアップを模索していました。そんな折、当時の米国大統領フランクリン・ルーズベルト(1882?1945)の運営する小児麻痺基金から寄付を求められたのです。

バイアーはこの募金活動がドハーティのイメージ・チェンジに役立つと考え、全米レベルで展開するパブリック・リレーションズのプランを作成。全国に組織を持つキワニスや労働組合などに旗振り役を依頼し、イベントのハイライトとしてルーズベルト大統領の誕生パーティを祝うプログラムを考えだしたのです。

こうして34年1月30日に開かれた大統領の誕生パーティを皮切りにして、「踊りましょう、子供たちが歩けるように」のスローガンの下、全米で次々にイベントが開催されました。金融王のモルガンや鉄道王のヴァンダヴィルトなど当時の代表的な経営者や著名人をスピーカーとして招待したり、テーマソングを創作し、お祭り気分を盛り上げることで人々の大きな注目を集め、5ヶ月間で100万ドルの募金を集めたのです。

このキャンペーンの手法は、病気の人々を助ける募金活動の原型となり、現在でも一般的に用いられています。一人の経営者のイメージアップのために作成したパブリック・リレーションズ・プログラムがアメリカ社会のみならず世界全体に大きな富をもたらすことになったのです。

この後もさまざまなビジネス経験を生かし、数々の成功を収めましたが、50年代に入ると体調を崩し、57年2月3日、癌のために永眠しました。
Carl Byoir & Associates は78年には Foote Cone & Beldingに買収され、その後 Hill & Knowltonに買収されます。ロサンジェルスのオフィスにはバイアーの名が刻まれているといいます。

彼のビジネスで常に一貫していたのは目的意識でした。「クライアントの掲げたゴールを達成するため如何に人々の心を動かすのか」を起点に全てを展開したことです。またバイアーはパブリック・リレーションズの持つ強力な影響力を意識して、常に公共に利益をもたらすプログラムの開発に力を注いでいたといいます。その意味で、パブリック・リレーションズの発展と共にアメリカ社会の繁栄にも大きく貢献した実務家であったといえるでしょう。

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