パブリック・リレーションズ

2006.11.10

PR熱に沸き、ますます勢いづく上海〜上海PR協会20周年記念カンファレンスで基調講演

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

先日私は上海を訪れました。2度目の訪問となる上海は、租界地として19世紀の終わりから日本や欧米の列強が領事館などを置いていた中国最大の国際都市。いわば中国の海外への窓口としての役割を果たしてきた街です。

ダイナミックに変容する国際都市

林立する高層ビルの中で、昔ながらの古い建造物を活かし、新しくリノベートされた地域には古いヨーロッパ的なものと近代的なデザインが独特な雰囲気をかもし出しています。新しいものと古いもの。欧米的な雰囲気とアジア的な雰囲気。一見相反するような要素がとてつもないエネルギーの下で渾然一体となり、想像を絶するスピードで突き進んでいる。そんな印象を受けました。活気に満ちた街は、日本が高度成長路線をまっしぐらに走っていた70年代、私がパブリック・リレーションズの実務家として駆け出しの頃の日本を彷彿とさせていました。

今回上海を訪問したのは、上海PR協会(Shanghai Public Relations Association)の設立20周年記念の国際カンファレンスに出席するため。日本からは、日本PR協会(PRSJ)を代表して国際委員長の塚本和子さん、同協会元事務局長でPRアドバイザーの福田清介さん、そして私の三名が出席しました。

私は海外から招待された基調講演者の一人としてスピーチを行いました。タイトルは「始動する日本のパブリック・リレーションズ(Breathing New Life Into Public Relations in Japan)」。戦後のGHQによるパブリック・リレーションズの導入から現在に至るまで、その経緯と日本のパブリック・リレーションズの現状、そして来年から始まるPRSJ資格認定制度について話をし、私の提唱する自己修正モデルも紹介させていただきました。

私と中国のパブリック・リレーションズとの出会いは、1988年、メルボルンで行われた国際PR協会(IPRA)世界大会に遡ります。当時IPRAの理事を務めていた私は、中共=レッド・チャイナ(当時は共産国家、中国をそう呼んでいました)から初参加の代表団を迎え入れました。

IPRAへの加盟を強く希望する代表団に対して、1965年にギリシャのアテネで開催されたIPRA総会で、国連の人権宣言に基づいた起草文が全会一致で採択された、「アテネ憲章(The Code of Athens)」を遵守することを前提に、加盟を受け入れることを理事会で決定したのです。中国での受け皿は中国国際PR協会(CIPRA)で北京に本部があります。歴代の駐米大使や国連大使が会長を務め、中国政府がバックアップしている協会です。ちなみに、ゴルバチョフ政権時代のソヴィエトは、中国に続いて同じ年にIPRAへ加盟(88年、第一回東西PR会議:於ウイーン&ブダペスト)しています。

米国のシステムを導入した上海PR協会

上海PR協会は、実に中国のIPRA加盟の2年前の1986年、中国で最初のPR協会として設立されていたことになります。米国PR協会のシステムを導入したとされる上海PR協会は、現在300名の会員に加え、200名の学生会員を擁しています。市内5つの主要大学内に支部を設置し活発な活動をしているようです。

今回の訪問で鮮烈な印象を受けたことは、街のエネルギーだけではなく、中国国内におけるパブリック・リレーションズに対する情熱が、国家的な取り組みとして私たちの想像をはるかに超えたものだったことです。現地では日本と異なり広告会社よりも勢いがあるようで、米国系のPR会社だけでなく、地元のPR会社もたくさん創設されています。多くのPR会社が、イベント企画からその実施まで、戦略立案からプランの策定と実施までを担当する、アメリカ型の活動を展開しています。

シンポジウム後の地元の大学関係者との交流で、上海の大学の授業で使うテキストへのアドバイスを求められたり、拙著『パブリック・リレーションズ』の中国語訳出版の話が持ち上がるなど予想以上の反応がありました。彼らは、米国のパブリック・リレーションズの単なる輸入版ではなく、アジアの視点が加味された本として大学でのテキストブックに利用したいとのことでした。「パブリック・リレーションズ」の韓国語版が来年発刊準備されている段階でこのような提案をいただきとても嬉しく思います。

さまざまな国のパブリック・リレーションズの実務家や研究者が集まったこの20周年記念カンファレンスでは、中国・韓国・日本のPRの専門家による定期的な合同会議開催の話が持ち上がるなど、今後の積極的な交流に向けた展開が期待されます。

滞在中のハイライトの一つは、前回訪問で実現できなかった、上海のランドマーク的なホテルで有名な「和平飯店(Peace Hotel)」のジャズ・バーで、戦前から変わらず続けられている、オールド・ジャズマンによるジャズ演奏が聴けたことです。最高の雰囲気でした。

現地でコーディネーターを担当していただいた日系PR会社、TCPS社長の田岡 子(男性)さんとスタッフの方には大変お世話になりました。滞在中の3日間、私も精力的にさまざまな人と交流し語り合い、充実した時間を過すことができました。ありがとうございました。

2008年には北京オリンピック、つづいて2010年には上海で万博が開催されます。これら国家プロジェクトの成功に向けて、中国のエネルギーはますますエスカレートする様相を呈しています。そのエネルギーに後押しされるかのように中国全土へのパブリック・リレーションズのシステム導入が急速に進んでいます。日本もあらゆるところで無駄な規制を取り払い、新しい国として再生するための骨格作りを急がなければと、焦りを感じながら熱気あふれる上海を後にしました。

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