パブリック・リレーションズ

2009.09.14

『体系パブリック・リレーションズ』を紐解く 17〜PRの歴史的発展 その7

こんにちは、井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

今週は、『体系パブリック・リレーションズ』Effective Public Relations (EPR)第9版の邦訳:ピアソン・エデュケーション)をご紹介します。EPRは米国で半世紀以上のロングセラーを記録するパブリック・リレーションズ(PR)のバイブル的な本で、日本語翻訳メンバーには私も加わり1年前の昨年9月20日に発売されました。

20世紀初頭に米国で登場・体系化されたとされるパブリック・リレーションズ。今回は、第4章「パブリック・リレーションズの歴史的発展」(井上邦夫訳)の7回目です。ここでは「抗議運動と市民パワーの時代(1965-1985)」を前半と後半の2回に分け、その前半をエポック・メイキングな事象を中心に紹介していきます。

消費者運動の指導者、ラルフ・ネーダー

本書では「抗議運動と市民パワーの時代」における重要なテーマについて、「消費者運動と環境保護、平和、人種差別撤廃、男女差別撤廃だった。調査報道に基づく新たなタイプの不正摘発ジャーナリズムと強力な権利擁護団体が、社会変化や新たな社会的セーフティネット、ビジネス・産業界に対する政府の規制強化を強く要求した。」と記しています。

そして、「市民デモや偉大なる社会(Great Society)を目指す立法措置、さらに誠実なる交渉を通じて、権力が再分配され、組織体はパブリックの関心事や価値にもっと対応するようになった」とし、環境保護と市民権の確保のための運動がこの時代では最重要であったことが記されています。

こうした中、弁護士で社会運動家のラルフ・ネーダーが登場します。本書では、「GMも社会からの抗議と監視のターゲットとなり、その結果、企業による説明責任の重要性に道を開くこととなった」と記され、ネーダーが『どんなスピードでも自動車は危険:アメリカの自動車に仕組まれた危険(Unsafe at Any Speed:The Designed-In Dangers of the American Automobile)』(1965年)を出版し、消費者運動の旗手として活躍したことを記述しています。

また「ネーダーは、シボレー・コルベアのサスペンション装置は自動車の転覆を招くと告発した。GMの法務部は、ネーダーの私生活を調査するという対応に出た。その結果として、GMの社長は上院小委員会に出席し、ネーダーに対し、脅迫的手段をとったことを謝罪した」と、大企業のエゴむき出しの行為を記述。本書はさらに、「ネーダーのプライバシー侵害の訴えを法廷外で解決し、コルベアのサスペンションを変更することに合意した。1966年、すべての自動車に安全標準を規定する、全国交通自動車安全法(National Traffic and Motor Vehicle Safety Act)が制定された」と巨大自動車メーカーを相手に戦った彼の功績を伝えています。

本書によると、ネーダーは和解金と本の印税で若手弁護士や調査員をスタッフとして雇い入れ、企業責任に関するプロジェクトを立ち上げます。彼は芽生えて間もない消費者運動で、「消費者を守る運動家」として一躍メディアの寵児となります。

そして、「『ネーダーの奇襲隊員たち』がその後40年に渡って企業の説明責任に圧力をかけ続けたため、企業の秘密主義と傲慢な態度は、多大な後退を余儀なくされた。」と企業の果たすべき説明責任を追及。さらに本書は「彼らの戦術の一つは、企業の株主に対し、議決権をネーダーに委任するよう依頼することで、これによりネーダーは株主総会で企業の方針と取締役の選任ついて異議をとなえることができた」と記しています。

世界約140ヵ国に拡大した「アースデー」

ラルフ・ネーダーの登場に先立つ1962年、レイチェル・カーソンは環境保護運動の始まりといわれる自著『沈黙の春』(Silent Spring:1962年)を発刊。これに対し時の大統領「ジョン・F・ケネディ大統領は、科学顧問委員会に対し、同書(『沈黙の春』)が詳細に告発した実態を調査するよう指示した。」と本書に記しています。

さらに同書が、殺虫剤としてのDDTの穀物散布の危険性とDDTが全体の食物連鎖を汚染させていると主張していることに対し、「大手の殺虫剤メーカーは、DDTがなければ、暗黒の時代が復活し、害虫や病害を防除できなくなると脅迫して対抗した。しかし、それまでのパブリックの無関心は、殺虫剤業界の取り締まりと環境保護を求めるパブリックの要求へと大きく変化した」と本書では市民意識の覚醒を伝えています。

また本書では、米国の環境問題に対する議員たちの反応は素早く、かつ長期的な取り組みが見られたとして「議会は1963年に大気汚染防止法、1969年に国家環境政策法(環境保護を国家の政策とする)、1970年には水質改善法をそれぞれ制定した。1970年4月には初めての『アースデー』が催され、同年10月に環境保護庁(EPA)が新設された。カーソンは、米国の実業界に戦いを挑んで勝利し、抗議と変化の時代の基礎を築いた」と記されています。ちなみに日本の環境庁(元環境省の前身)は1971年7月発足。

「アースデー」は、ウィスコンシン州選出のG・ネルソン上院議員が1970年4月22日を制定。当時全米学生自治会長であったデニス・ヘイズがこの概念を具現化する行動をアメリカ全土に呼びかけ環境問題についての討論集会が開催されるなどしました。これが契機となり、市民レベルの大きな草の根活動に発展し、現在では世界約140ヵ国で約2億人の人たちが参加するほどの広がりをみせています。

日本においても、1990年からこの日にコンサートや野外フェスティバルなどのイベントが開催されるようになりました。日本武道館で毎年開催されている「コスモアースコンシャスアクト・アースデー・コンサート」はよく知られています。

「抗議運動と市民パワーの時代」の前半におけるパブリック・リレーションズの重要なテーマとして、ラルフ・ネーダーの登場による「消費者運動」の高まりと、「アースデー」に代表される「環境保護」について紹介しました。これらのテーマは、現在においてもパブリック・リレーションズ(PR)の大きな課題となっています。

さて次回は、PRの歴史的発展の「抗議運動と市民パワーの時代」の後半についてお話します。

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