パブリック・リレーションズ

2005.07.11

なぜか、いつも本業はパブリック・リレーションズ〜パブリック・リレーションズとともに歩んだ35年間 その1〜

皆さんこんにちは。梅雨前線の影響で各地で不順な気候が続いていますがお元気ですか?

7月4日に株式会社井之上パブリックリレーションズは満35才を迎えましたが、きようは先週のブログでお話したように、私がなぜこの業界を自身の職業として選び、PRを追求してきたかをお話したいと思います

日本が高度成長期のまっ只中の1968年に大学を卒業し、就職先のヤマハを退社後独立しました。最初の取引先となったヤマハの仕事で音楽普及のための数々のプロジェクトをオーケストレート、つまりプロジュースする機会を得ました。

そして73年に、メディアへのパブリシティ活動を十分なものにするために、新たに社内には活字媒体でいうところの編集機能を持たせ、別会社としてラジオやテレビの制作機能を持った番組制作会社、「PMC」をスタートさせました。

これら二つの機能がどのようなものであったかは、後日お話しすることとして、73年と79年、日本が好景気に沸く中で二度にわたって起きたオイルショックを体験し、日本経済の脆弱性を目の当たりにしました。その頃、深く関わっていた三菱電機との取引の中で「資源の少ない日本は、技術力で生き残るしかない」ことを深く実感し、ハイテク分野への可能性に惹かれていったのです。この時期、先進国のビジネスが急速に海外展開を進めていることを強く感じていたので、自然に海外へと目を向け始めました。

そんな中でPRパーソンとして最初の転機が訪れます。インテル社、アップルコンピュータ社との出会いです。

インテル社と最初に出会ったのは78年。当時、外人記者クラブのジャーナリストからインテル・ジャパンのマーケティング・マネジャーだった知名定清さんを紹介され、同社のPR業務を受託したのです。当時本社会長であった、ロバート・ノイスさんとそのグループが世界で初めて開発した、マイクロ・プロセッサの日本での普及のために奔走しました。

その後79年には、インテルのPRコンサルティング・ファームのリージェス・マッケンナから紹介されてアップル・コンピュータ社のコンサルティングを行いました。二人のスティーブ、つまりS・ジョブズとS・ウオズニヤックによりガレージから始まったアップルが、本格的に日本進出する前のことで、私たちのサービスは、出先機能のない日本市場での、PR業務を超えた広範な情報収集やマーケティングのサポート、そしてリクルーティングなど、日本でのリエゾン・オフィス的な機能を提供しました。その後、日本法人設立やマッキントッシュの発表などに関わるなど、ある意味でパブリック・リレーションズの実務家としては理想的な仕事をさせていただきました。

こうして70年代後半から80年代にかけて、アメリカ、シリコンバレーで興ったハイテクベンチャー企業の創世期にかかわり、スピーディな経営判断、修正能力の高さ、そして、これらのベースにあるフラットな「双方向性コミュニケーション」の存在を身近にすることができました。また、レバレッジ経営にみられる、「専門分野以外は外部のプロに任せる…」一貫したシステムや、ベンチャー企業が経営者一人の才覚でビジネス界の頂点へ上り詰められる社会環境、そんな合理性に基づいたアメリカの懐の深さを、眩しいカルフォルニアの陽光のなかで目の当たりにしました。

シリコンバレーは「イノベーション」の本当の意味、つまり「革新にはリスクが伴う」ことを教えてくれました。残念ながら日本の多くの企業では「革新」を叫んでも、「リスク」はとりたくないといった傾向が強く、「スピード経営」が叫ばれてはいるものの、韓国や台湾、ひいては中国に後れをとり、ビジネスチャンスを失う例が近年後を絶ちません。極論すれば、コミュニケーションの双方向性と「自己修正」が働いていないことの証左ともいえます。

35年間の歩みを書き綴るにはもう少しスペースが必要ですので、来週はどういうきっかけでパブリック・リレーションズの本質を知ることになったのかをお話したいと思います。

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