交遊録
2007.02.03
日米の架け橋40年、神田幹雄さん〜両国の相互理解に賭けた人生
こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?
私は所属するある団体主催の会に出席するため、1月末から米国ワシントンDCを訪れています。世界の政治の中心地ワシントンで、日米の政治的・文化的交流に尽力する日米文化センター理事長の神田幹雄さんとお会いしました。今回は、日米の架け橋として40年以上にわたり米国で活躍してきた一人の日本人、神田幹雄さんについてお話します。
ケネディ家との運命的な出会い
神田さんとの出会いは20数年前、共通の友人による紹介がきっかけでした。学生時代にロバート・ケネディ(当時司法長官)を早稲田に招聘した人として関係者の間では知られていた人で、ケネディが好きだった私にとって、同じ大学の先輩であったこともあり好奇心をそそる対象でした。当時の神田さんは、彼が創設した日米文化センターの事業の一環として日米学生論文コンクール(読売新聞後援)や全米日本語弁論大会を実施し、日米間を精力的に往復していました。
神田さんと米国との関わりは40年以上も前にさかのぼります。1963年11月22日、ジョン・F.・ケネディが暗殺されました。その悲報を受け翌12月、彼が設立した学生団体「日本青年国際問題研究会」で、その死を悼む一日がかりの「故ケネディ大統領追悼講演会」がライシャワー大使出席のもと、早稲田大学大隈講堂で催されたのです。この話を聞いた弟のロバート・ケネディ司法長官は翌年1月の来日の際、どうしても早稲田大学を訪問し、先の追悼講演会のお礼もかね日本の若者と接したいと強く希望したのでした。そして歓迎会開催の話が急遽持ち上がりました。
当時神田さんは、早稲田大学、慶応大学、東京大学など東京の大学の学生を中心に構成された前述の研究会の幹事長として、東大の責任者をしていた神崎武法さん(前公明党委員長)などと積極的に活動していたようです。60年代前半は日米安保条約反対を唱える学生運動が盛んだった頃。神田さんは不測の事態を覚悟で米国側の希望を受け入れ、大隈講堂でのロバート・ケネディ歓迎会を同研究会主催で開催することを決心し、その歓迎委員長を務めたのです。かくして64年1月、ケネディ司法長官の大隈講堂での歓迎会が実現。
会場には研究会メンバーの神崎さんをはじめとし、政治家グループの歓迎委員長を務めていた当時まだ気鋭の中曽根康弘さんや早稲田の大学院のクラスメートで議員一年生だった小渕恵三さんたちの顔も見られました。貧乏学生にとって、当日急遽依頼されたエセル婦人とハル・ライシャワー大使婦人へ贈呈する花束を買う余分なお金もなく、大学に頼み立て替えてもらった往時を懐かしそうに語っています。
歓迎会は無事に終わり、このニュースは世界を駆け回りました。これを機に神田さんとケネディ家との交流が始まったのです。その後同年10月、ロバート・ケネディの招きで米国に1ヶ月滞在。ニューヨーク州上院議員に立候補することになった同氏の選挙キャンペーンに同行したのです。最後の子供を身ごもったエセル婦人と共に、1週間同じ車で移動した時は冒険に満ちたものだったようです。当選が確定した日、夜中に始まったプライベートな祝賀パーティでは、お祝いに駆けつけたトニー・ベネット自身がBGMで「思い出のサンフランフランシスコ」を唄い、サミー・デイビス・ジュニアが熱唱するなど、その華やかな光景には圧倒されたそうです。
68年、そのロバート・ケネディ自身も、民主党大統領候補選出のための予備選挙キャンペーン中に銃弾に倒れましたが、彼の亡き後も神田さんと、エセル夫人を初めとするケネディ家との間の交流は続きました。
ロバート・ケネディと言えば、私は1998年、彼に最も風貌が似ているといわれる次男のロバート・ケネディJRが来日時、早稲田大学への表敬訪問をアレンジしたことがあります。彼を大隈講堂の壇上に立たせて、30年以上も前にその場所で彼の父ロバートが講演した事を告げると、彼は、当時の父親の面影を捜し求めるようにその場所にしばらく佇んでいたのがとても印象的でした。
日米文化センターの残した功績
そして40年程前に神田さんは、政治・経済を抱合した日米間の文化交流を促進させる組織、「日米文化センター」をワシントンDCに創設。その後、米国公益法人の認可を受け日本事務所も構えて精力的に活動を行います。長くウォーターゲート・ビル内にその活動の拠点を置いていた同センターの主な活動は、米国の大統領候補から高校生までの日本招聘、議員交流、都道府県庁職員や大学経営者の米国研修、同センター主催のセミナー、日本語講座などです。なかでも日本語講座には国務省や商務省からも多くの役人が受講し、受講生のなかには商務次官やホワイトハウスの補佐官などの名前を見ることができます。
神田さんは日本の政治力、経済力がまだ弱く米国との間で十分なパイプがなかった時代に、ワシントンで独自の活動を始め、数多くの日本の外交官や政治家を米国議会やホワイトハウスの要人に引き合わせました。その交友関係は極めて幅広いものがあり、現在第一線で活躍している多くの日米の政治家や経済人、文化人との深い関わりが見られます。
大河原良雄さんをはじめとする歴代の駐米大使はもとより、前述の政治家をはじめ、宇都宮徳馬、三原朝雄、福田赳夫元首相、また大学同窓の森喜朗元首相といった人たちともユニークな交流を持っていました。現在国務大臣の高市早苗さんとは、彼女が松下政経塾時代、ワシントン研修で滞在中に同センターでアルバイトをしていたときからのお付き合い。
またジョージ・タウン大学にあった戦略国際問題研究所(CSIS)と共催で、福田赳夫元首相やブレジンスキーなどを交えたシンポジウムを行うなど日米問題に積極的に取り組んだのでした。
なかでも神田さんと沖縄返還実現に重要な役割を果たし、北方領土返還運動の先駆者でもあった末次一郎さん(2001年逝去)との親交は深いものがありました。神田さんがジョージ・タウン大学留学時代、末次さんのワシントンでの沖縄返還実現へ向けたロビー活動に関わったことがあります。陸軍中野学校出身の末次さんは、上下両院外交委員長・院内総務や国務次官との交渉の場面で、媚びることなく独自の論陣を張り相手を説得。同行した神田さんは、日本では数少ない民族主義者でもある末次さんのスケールの大きい立ち振る舞いに深く感銘を受けたそうです。
ちなみに末次一郎さんは日本健青会を創設してシベリアに抑留されていた日本軍人の帰還などの戦後処理活動を積極的に行い、青年海外協力隊の創設に努めるなど戦後日本の国づくりに尽力された方です。彼のことは後日このブログで採りあげたいと思っています。
90年初めには『アメリカの本当の素顔―ワシントン・レポート』を出版(1991年,PHP研究所)。同書はユニークな視点で80年代のアメリカの実像に迫った名著といえます。
ロバート・ケネディとの出会いから43年、神田さんの長年にわたる日米の良好な関係構築に対する貢献の大きさは、2004年東京の日本プレスセンターで開かれた、「日米文化センター創設25周年を祝う会」にロバートの遺児で長男のジョセフ・ケネディJRから贈られた祝辞に象徴されています。
「日本の人々、文化、友情、日米両国の関係が持つ意味について、私たちアメリカ人の理解が深まるよう尽力されてきました。彼ほどアメリカにおける日本の地位を高めてきた人を私は知りません」
神田さんは40年に及ぶ滞米生活にも拘らず、あえて米国籍を取得することなく、日本人としてのアイデンティティを持ち続けています。
ご家族は、アメリカで知り合った令子夫人との間に2人のお嬢さんがいます。令子夫人は30年以上にわたって国連や世界銀行に勤務しており、2人のお嬢さんは国連や日本のJICAの仕事でウィーンやジャカルタで国際公務員として活躍。
体に自信があった神田さんは昨年6月には心臓を患い、米国で19時間にも及ぶ大手術に耐え抜き成功させました。今回は、新年に東京でお会いしてから1ヶ月ぶりの再会。
神田さんの体が順調に回復に向かっている様子に安堵しつつ、健康とこれからも日本と米国を繋ぐ橋渡し役として末永くご活躍されんことを心より祈ってやみません。
来週は、昨年9月にグルーニッグ教授を訪問したのが縁で招聘された、メリーランド大学でのパブリック・リレーションズの特別講義と現地でパブリック・リレーションズを学ぶ学生についてお話します。
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