交遊録

2007.04.13

河島博さんの死を悼んで〜2人のワンマン経営者に仕えた偉大なテクノクラート

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?

先日、ダイエーで取締役社長室長をやっておられた佐藤純さんから連絡がありました。元ダイエー副会長で元日本楽器製造(現ヤマハ)社長の河島博さんが亡くなったとの知らせでした。ここ何年間か体調を崩し、一線から退いていた河島さん。最愛の妻、タミ子夫人を失い49日を待たずにその後を追うように急逝した河島さんの訃報に、驚きを禁じ得ませんでした。

46歳の若さでヤマハ社長に大抜擢

河島博さんとの初めての出会いは1977年。第4代ヤマハ(日本楽器)社長川上源一さんの後継社長として就任の時。私がヤマハを辞め、PR会社をスタートさせて10年足らずの駆け出しの30代前半のことでした。

その年、46歳にして河島さんはヤマハの社長に抜擢されました。当時46歳の社長就任は大企業では異例の人事として世間で騒がれました。河島さんは、当時ホンダの本田宗一郎さんの後継者として2代目の社長(現在同社の最高顧問)であった河島喜好さんの実弟。兄弟でライバル会社、ホンダとヤマハの社長となった二人はメディアの注目も集め、とても輝いていました。

日本が高度成長に沸く60年代、ヤマハを世界ブランドに仕立てた川上源一という天才的経営者のもと、実に多彩な人材が輩出されました。その筆頭が河島博でした。66年に河島さんは同社の米国現地法人ヤマハ・インターナショナル・コーポレーション(以下YIC)の上級副社長兼ジェネラル・マネジャー就任のために渡米、その後72年に社長就任。ヤマハグループ企業で川上源一氏以外に始めて社長に就任したのです。

1960年、ソニーやYKKが米国進出した同じ年、ヤマハは楽器とヤマハ発動機のオートバイを統合販売する米国の拠点としてロサンゼルスにYICを設立。河島さんが米国赴任する66年までに米国現地法人を持つ日本メーカーはわずか十数社程度。河島さんは日本で培ったヤマハ的なソフト・ハード両面を押さえた立体的な経営手法とアメリカの合理性を統合し、中・長期戦略に基づく徹底した現地化戦略を展開し、在任中の6年間で売上げを約10倍にする実績を挙げています。「現地生産」や「用途開発」など日本企業現地化の「モデル」を作り上げたとも言われています。

米国での輝かしい成功を収めた河島さんは、74年、本社常務として帰国。その2年後専務へと昇進。77年 1月には第5代社長に46才の若さで大抜擢されました。アメリカ経験の長い河島さんはパブリック・リレーションズへの理解がありました。

当時、取締役広報部長であった佐野雄志(故人)さんの直轄のプロジェクトに従事していた私は、河島さんの社長就任後初の外国メディアによる単独インタビューをアレンジしました。米国ビジネス誌FORTUNEの記者、Chanさんを浜松に同行し、社長室で初めてお会いしたときの河島さんの紅潮した顔は今でも強く印象に残っています。

就任後、同社の経営体制・収益体質を刷新の結果、3年で業績を回復し、3年目の決算では過去最高の経常利益を達成させました。しかし後継者問題に起因する当時の川上源一会長との確執が原因となり、80年6月、本人のアメリカ出張中に突然社長を解任されたのです。社長在任の期間はわずか3年あまりでした。3年目の決算数字は、河島解任後10年を経ても塗り替えられることはありませんでした。

奇跡的なダイエーのV字回復

その後82年、河島さんはダイエーの中内功さんに請われダイエーの副社長に就任。ヤマハ時代、前述の広報部長の佐野さん(79年に48才で急逝)と2人3脚の深い信頼関係結ばれ、広報を経営の中枢に組み込み積極経営を行なっていた河島さんは、佐野さんと親交のあった私を「プロデュースN」というダイエー再生の為の外部ブレーン集団(6名)の一人に起用しました。それが縁で河島さんとは定期的にお会いするようになり、以来さまざまな私の会社の海外クライアント企業のCEOとのビジネス・ミーティングに快く応じてくれました。

そこで私が触れたのは抜群の経営感覚と、スピード感溢れるアメリカ流合理主義。経営危機に陥り有利子負債7千億円を抱え、約65億円の赤字会社を3年で黒字化。数百社におよぶ子会社の経営安定化を実現し、不可能に見えたダイエーのV字回復を見事に実現したのです。2001年、ダイエー再建のために社長に就任した高木邦夫さんは、このV字回復時の河島プロジェクトの中心メンバーのひとりでした。

加藤仁著の『社長の椅子が泣いている』(講談社、2006)によれば、その経営スタイルとは総合立体的経営だったとされています。内容を要約すれば、社会的責任や国際情勢に気を配りながらヒト・モノ・カネを有機的に活用し、様々な交流を通して従業員や取引先、株主など組織を取り巻くパブリック全てが利益を享受できるような経営でした。河島さんはまさに理想的なパブリック・リレーションズを80年代の日本で実践していたともいえます。

87年、河島さんは中内社長の要請を受け、倒産企業・リッカーの社長に就任し、同社の再建に着手。債務536億円をわずか5年で返済し、93年の売上高は350億円とピーク時の6割にまで回復させ、社長の椅子を後にしました。しかし残念ながらリッカーは、有利子負債が膨らんだダイエーの資本・債務再編のため中内社長の一存で同社傘下に吸収。そして97年河島さんの任期満了によりダイエー副会長を退任しました。ダイエーの経営危機が叫ばれ始めたのはその1年後。その後ダイエーは2004年10月には産業再生機構入りし、解体への道を辿っていくことになります。

強烈な個性を放つ2人のワンマン社長に仕えた河島さん。彼は結果を残しながらも、世襲という問題の前に2度にわたって同様な経験をしました。その要因には、株主本位の経営が行われる以前の日本的経営があったといえるでしょう。

河島さんは生前よく「私はテクノクラート(専門知識をもって組織運営する技術官僚)」といっていました。ダイエー時代は、ヤマハでの苦い経験がトラウマとなっていたのか、多くのメディアからの取材申し入れを断り続け、一切メディアに登場することはありませんでした。その意味で、当時の河島さんはメディア価値の最も高い人物の一人でした。

河島さんの構築したビジネスモデルは、グローバル企業のCEOに求められる経営戦略構築とその遂行における迅速な意思決定プロセスなど、現在でも優れた企業経営のなかに多く見いだすことができます。河島さんとの出会いとその後の交流をとおして、身近にその独自の経営観に触れることができ、私にとってビジネス人生のなかで貴重なものとなっています。

最後にお話したのは昨年の秋。電話の向こうで、体調がすぐれないので回復したらゆっくり会いましょうと弾んだ声が返ってきました。

出棺のとき河島さんの顔はとても安らかでした。その時流れていたベートーベンの「月光」が、いつも太陽の影となって生きた彼の人生を象徴しているかのようでとても印象的でした。多くのヤマハ、ダイエー関係者参列のもと、実兄の喜好さんや子供達に囲まれた荘厳なお別れでした。

河島さん、これまでいろいろありがとうございました。あなたのことは今後も永久に語り続けられることでしょう。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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