交遊録

2008.08.23

水しぶきの中の青春 2

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

8月8日から開催されていた北京オリンピックも閉幕しました。日本は9個の金メダルを含め計25個のメダルを獲得。その中でも2つの金メダルを手にした水泳の北島康介選手の平泳ぎ(100m、200m)は他を圧倒しました。科学的に研究され完成された泳法であったこともさることながら、北島選手の勝負にかける気迫が金メダルを引き寄せたといえます。

8月の日曜日の午後、母校立川高校のプールに3年ぶりに行きました。ちょうどTV番組で繰り返され放映される北島選手の完成された泳法を目に浮かべながら、高校時代水泳部で毎日練習に明け暮れたことが想いだされました。

■サンタクララ・スイミング・クラブの選手に圧倒される

高校時代、私の脳裏に焼き付いている一つの光景があります。それは神宮プールでのインターハイに出場した2年の時、当時来日していた、米国のサンタクララ・スイミング・クラブ(現在のシリコンバレーにある)のスイマーたちのことでした。

サンタクララ・スイミング・クラブは、当時、自由形の天才スイマーといわれ64年の東京大会で100/200m自由形で金メダルを取った、ドン・ショランダーをはじめ、その後72年のミュンヘン大会で7つの金メダルを獲得したマーク・スピッツなど、科学的トレーニングで数々の名選手を輩出した有名なクラブ。このクラブに所属するドナ・デバロナやリチャード・ロスとプールサイドで一緒になるチャンスがあったのです。

なかでもリチャード・ロスと並んだとき、彼の180cmを超える身長と太い腕をみて圧倒されたのでした。その少年はまだ中学3年生。彼は3年後の東京オリンピックでは400m個人メドレーで金メダル(デバロナは女子の同種目で金、400メドレーリレーで金)を取りましたが、彼らを目のあたりにしたときに、肉体的に優れていないと世界では勝てないのではないかと衝撃を受けたのです。それ以来、水泳で頑張ろうと思っていた私の頭の中で肉体的なハンディがトラウマになったのです。

山中毅さんとの出会い

山中毅の名前は、年配者でその名を知らない人はいません。彼は石川県輪島高校の2年生のときメルボルン・オリンピックにデビュー。1960年のメルボルン大会では、豪州のマレー・ローズらと競い、400mと1500m自由形で日本に銀メダルと銅メダルをもたらした人。その後、200m/400m自由形で世界記録を作るなど古橋広之進以来の日本水泳界のヒーローで、水泳に青春をかけた私にとってはあこがれの人でした。

私が立川高校2年の春休みから、東伏見にある早大(稲泳会)の合宿所に通い出した頃は、山中さんが社会人として大洋漁業に行き先が決まり早大を卒業するとき。そこで直接会うことはありませんでした。それから40年ほど経った数年前、偶然にご本人と初めてお会いする機会を得たのです。

私の目の前に立つ山中さんは、体を患い痩せていたこともありましたが、かつてTVで観た、世界新記録を何回も塗り替えた筋骨たくましい山中毅のイメージからほど遠い、私より小柄で身長170cmに満たない人だったのです。この体の人が世界と闘っていたとは。肉体的なハンディを乗り越えてクロールで世界の頂点に上り詰めた山中さんとあの頃東伏見のプールで出会っていたら、神宮プールでの衝撃に臆することなく、そして伏見の合宿で自分の泳法を変えられたぐらいで意気消沈することなく、リスクをとってでも勝負していたかもしれません。

それだけに176cmの北島選手が肉体的なハンディを乗り越え2大会続いて世界新で金メダルを取ったことはまさに驚異的だったと思うのです。

久しぶりの母校のプールサイドで先輩や後輩と交わるなか、ふとそんなことを考え、往時のことや仲間たちと過ごした45年前に思いを馳せたのでした。

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