交遊録

2008.05.10

ある友人の死〜「源氏物語」映画化の夢を追い続けたフランス人

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

先日私の長年のフランス人の友人の奥さんから電話がありました。
私の留守中に何度かあったとのこと。ふだん奥さんが電話をかけてくることはないので、胸騒ぎを覚えながら、オーストラリアに住む彼の家に電話を入れました。電話の向こうで、奥さんのカルメンが彼女の夫が亡くなったことを泣きながら伝えてくれました。

最近は友人関係で、本人以外で奥さんやお子さんからの連絡の大半は、本人の事故の知らせや訃報であることが多いように思います。今回も無意識のうちに頭のどこかで彼の身の上に何かが起きたのではと、覚悟していましたが、さすがにこの突然の訃報に気は動転しました。その知らせは、彼が3月の終りに旅行先のイタリアの奥さんの実家で亡くなったというものでした。気がついたら末期癌だったようです。彼女からの電話は、友人の死の直後に彼女の出したメール(ジャンクメールに埋没)に、私から返事がなかったことを心配しての連絡でした。

友人の名前はジル・ジャーマン。オーストラリアのケアンズから100kmほどにあるデインツリーに住んでいました。そこはデインツリー国立公園のなかで、近くに1988年世界界遺産に登録された場所がある広大な熱帯雨林。彼はそこで高級コテージ( http://www.cockatoohillretreat.com.au/ )を経営する傍ら映画ビジネスにも携わっていました。

写真:ジルの経営している 写真:ジルの経営している Cockatoo Hill Retreat

モロッコ生まれ、5つの国に住んだ国際人

ジル・ジャーマンの生まれた国は、当時フランス植民地だったモロッコ。その後、フランス、スイス、スリランカ、そしてオーストラリアマと5カ国での生活体験をもつコスモポリタン。

彼と初めて出会ったのは、今から30年以上も前の、ヤマハ主催の世界歌謡際でした。1970年から20年間ほど続いた日本最大のポピュラーソングの音楽祭。世界50カ国以上から参加するミュージシャンのコンクールで、日本武道館で3日間にわたり毎年秋に開催されていました。レコード会社を経営していたジルは、スリランカに住んでいたこともあり、そのときにスリランカ代表を連れて来日したのです。

当時、武道館での3万人の動員の外部責任者として関わっていた私はスリランカグループのスピリチュアルで透きとおった美しいハーモニーのコーラスに魅せられ、たちまち意気投合。その後、ジル・ジャーマンは拠点をオーストラリアのシドニーに移しましたが、レコード・ビジネスで来日のたびに親交を深めていきました。

「源氏物語」映画化に向けて

彼と仕事で具体的に関わるようになったのは、1988年、私がメルボルンで開催されたパブリック・リレーションズ(PR)の世界大会(11th IPRA World Congress)への出席の帰り、当時シドニーにあった彼の家に立ち寄ったときでした。そのときジルの口から初めて、源氏物語の国際合作映画を作る話を知らされたのです。映画の内容は、11世紀と現代をパラレルで進行させるという極めて独創的なものでした。当時、経済超大国になった日本はパブリック・リレーションズ不足で世界に不必要な誤解と悪いイメージを与えていました。そんな中、このプロジェクトは私にとっては日本のイメージを変える格好の素材として映ったのです。

ジルはマルチ・カルチャーが理解できる人間でした。この源氏物語の映画化プロジェクトをプロデユーサーとして立ち上げようとしていたとき、彼は日本人の忍耐強さと「許し」の精神について度々私に話したものです。 「日本人は、広島、長崎で原爆を落とされ、あんな悲惨なめにあっていてもなぜ、アメリカ人を許しているのだろうか?」。 そのとき、彼の質問の意味やその背景について私はよく理解できていませんでした。しかしそれらはその後しばらくして彼の体験を知って理解できるようになったのです。

アルジェリアがまだフランスの植民地だったころ、ジャーマン家はそこで3-4世代にわたって、フランス軍へ毎年大量(100万本)のワインを納める葡萄農園を経営していたようです。その後、アルジェリア独立運動の機運が高まり、家族はモロッコに移住します。1950年に彼は首都ラバトで生を受けますが、紛争はモロッコにも飛び火します。運命は彼の幼少時代に悲惨な体験を強いることになります。それは内戦状態の中で彼の叔父さんが、テロで殺されるのです。家の玄関のドアに磔にされた無残な姿をジル少年は目撃したのでした。

フランス人は気短な人が多いといわれていますが、彼には、その気はまったくありません。おそらく彼の少年の頃の体験と、回教徒のなかで育った環境で忍耐強くなったのでしょうか。

彼の生い立ちを知ってから、「許し」の意味がより深くわかるようになりました。映画のタイトルは Genji-The Shinning One 。根底に流れるテーマを「許し(Forgiveness)」としたのです。日本人のアメリカ人への許しと、少年時代、叔父を殺害した暴徒への彼自身の許しが二重になっていたのかもしれません。光源氏と、彼が尊敬してやまない父帝が愛した、藤壺との間にできた不義の子。父に許しを乞おうとする光源氏の心の葛藤。平安時代の絢爛豪華で芳醇な時代背景で展開されるストーリーと、現代、同様な境遇にあるアメリカ人家族で繰り広げられるドラマが時代を超えて交差していきます。

人間の弱さや罪深さを「許し」をテーマにスクリーンで表現したかったジル・ジャーマン。彼が1988年に映画制作を企画してもう20年が経ちました。

日本での制作の責任者には、黒澤明の監督時代に助監督を経験し、東宝映画のゴジラ・シリーズ(ゴジラ対ヘドラ)で監督を手懸けた坂野義光さんも加わり、衣装担当にお願いしていた和田エミさんや源氏物語の英訳者のサイデンステッカーさんなどと映画について夢を語ったものです。

アメリカのアービン・カーシュナー(「スター・ウオーズ帝国の逆襲」監督)も総監督候補者として自ら名乗りを上げ、打ち合わせに来日したこともありました(写真中央)。

在りし日のジル・シャーマン:写真に向かって右から、J・ジャーマン、筆者、アービン・カーシュナー、ボブ・エリス(脚本家)、坂野義光 うかい鳥山(高尾)にて

この映画プロジェクトは、彼のその後のホテル・ビジネスへのかかわりや制作予算が大きいことなどもありいまだ実現に至っていません。しかし昨年あたりから再開されるようになりその矢先のことでした。それだけに今回のジル・ジャーマンの死は悔やまれてなりません。

ジル・ジャーマンの音楽や芸術に対する感性は卓越したものがありました。フランス料理の腕はプロ顔負けで、家に遊びに行ったときはその腕を披露してくれたものです。スイスの大学で知り合ったカルメンは陶芸の先生もしているよきパートナーでした。

彼は生前よく、デインツリーの素晴らしさを語ってくれました。住まいを流れる小さな浅い川は、「天然の白いマーブル石を敷き詰めたプールのようで、川底から映す色はコバルトブルーの輝き、世界中どこにもないから、一度是非見にきて」とトロピカルで神秘的な場所を気に入っていました。彼が生きているうちに行けなかったことが悔やまれてなりません。

ジル、長い間あなたと夢をシェアーできて幸せでした。できるだけ早い時期に、あなたの愛したデインツリーを訪問します。そして、残された者とあなたの精神を受け継いでこの映画が実現できるよう努力します。そのためにあなたの力をください。

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