アカデミック活動

2005.12.30

テヘランでの国際シンポジウムに参加して〜驚異のパブリック・リレーションズ熱

こんにちは。井之上喬です。

明日は大晦日、2005年もあと数十時間で終わりを告げますが、皆さんいかがお過ごしですか。
先日、12月中旬に訪問したイランの出張報告を予告しましたが、今年最後のブログはそのお話しをしたいと思います。

イラン(正式名称:イラン・イスラム共和国)は西アジアに位置しトルコ、イラク、パキスタンなどに隣接する中東の国です。人口は約6900万人で宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つユニークな共和制国家です。1979年ホメイニ師によるイラン革命により、当時パーレヴィー王朝のシャー(国王)、モハンマド・レザー・パーレヴィー国王がエジプト亡命を余儀なくされたことで王朝は終焉を迎え現在の体制に移行されました。国名イランは「アーリア人の国」という意味で、言語はアラビア語ではなくペルシア語が公用語として使用されています。

今回のシンポジウムは、イランにあるパブリック・リレーションズ・リサーチ研究所が私の所属する国際PR協会(IPRA 本部:ロンドン)の協力のもとで、12月11、12日の2日間にわたり開催されました。とくに開催直前、アハマディネジャド大統領による二度目のイスラエルへの問題発言(「イスラエルは欧州へ引っ越せ…」)が世界的に大きく報道されるなかで、初めてのイラン訪問に少なからず不安感を抱きながら現地入りしました。

今年4月にオープンしたばかりの近代的なイマーム・ホメイニ空港に到着すると、世話役のイラン厚生省の役人で大会事務局次長を務めるアミール・ラステガル氏が空港まで出迎えてくれました。郊外にある空港から首都テヘランへの道のりは車で約1時間半(道路は大混雑)。人口1,000万人を超える首都テヘランはイランにおける政治、経済、文化の中心地で、イラン高原の北西部に位置する周囲を山で囲まれた谷の町です。空気の流れが悪いせいか、市内の工場からの煙や車の排気ガスがスモッグとして滞留し、地元の学校が頻繁に臨時休校するほどです。
それでも意外なことは、イラン国内には4,000メートル級の山があり、その山麗から湧き出るミネラル・ウォーターはフランス産のエビアンを彷彿とさせるマイルドな味わいで、ホテルの水が美味しかったのもうなずけました。

パブリック・リレーションズの新しい理論研究をテーマにしたこのシンポジウムでは、国際PR協会の会長で長年の友人であるチャールズ・ヴァン・デル・ストラッテン(ベルギー)を含め、イギリス、ドイツ、アイルランド、エストニア、オランダ、ノルウェイ、日本など8カ国9人の学者や実務家がスピーカーとして招待されましたが、先の大統領発言もあり全員緊張して大会に臨みました。
地元の参加者は、イラン国内の政府機関や民間企業、教育機関などのPR担当者、そしてパブリック・リレーションズを専攻している学生などで、1000人を超え、大統領の問題発言もあり会場全体は熱気に包まれていました。

私のスピーチ・テーマは“Advanced Research of Self-correction in Public Relations( パブリック・リレーションズにおける自己修正に関する研究についての最新報告)” というテーマで、目的達成のためのパブリック・リレーションズ活動における「倫理」 「双方向性コミュニケーション」 「自己修正」の3つを重要な要素とし、とりわけ「メタ認知」の概念を適用した「自己修正」の有効性について語りました。メタ認知とは、一般的に自分の思考を思考することで、自分自身(行動や考え方、知識量・特性・欠点など)を別の次元から眺め認識することです。
講演前は「必要に応じて自己の深い部分で自らを修正する」といったテーマにどこまで聴衆の理解を得られるか心配しましたが、聴衆からは強い共鳴を得られたことに嬉しい驚きを覚えました。彼らがイスラム教を信仰に持ち、会議や集会の始まりには必ず短いお祈りをして一体感を持って物事に臨むなど、神の存在を理解しているからこそ共鳴してくれたのかもしれません。そして、聴衆からパブリック・リレーションズをより掘り下げて学びたいとの熱意が伝わってきたことも新鮮でした。

講演を終えて、外国からの訪問者へ興味を持った沢山の若者たちからデジカメでの記念撮影や、サイン攻めに会いました。なかでもとても面白かったのは、サインというよりEメール・アドレスを求められたことです。また、ブルカ(女性が被るスカーフとコート)を身に纏い一見か弱そうに見える女性たちが、それぞれしっかりしていて個性豊かであったことが印象的でした。
月曜日の午前中に講演を終えた私は、英国人のスピーカーと2人で、午後からのイラン国内で活動する金融機関のPR部門で働く管理職約40人が参加するフォーラムに参加しました。イランのファイナンシャル・セクターは一昔前の日本のそれに似ており、国の強い規制下で如何に他の国とりわけ湾岸諸国の金融機関との競争で差別化を図るべきかに神経を尖らせていました。そして、こうした状況の中ではどのようなパブリック・リレーションズが展開されるべきかが真剣に議論されました。

私の彼らへのアドバイスのなかで特に強調したことは、グローバル競争に打ち勝つ前提となる政府の規制緩和実現のための、パブリック・リレーションズの積極的活用の必要性でした。
その晩には、シンポジウムのスポンサーでもあるイラン最大の乳製品メーカー、イラン・デイリー・インダストリーズ社からプレゼンテーションを受けました(祈りで始まる)。考えられるPR手法を最大限使ったプログラムの紹介の後、驚きと共に知らされたことは、この会社のPR体制がトップに直結した実に強固なもので、PR責任者が経営コミッティ(委員会)、研究開発委員会、マーケティング委員会など、社内にある全ての委員会にメンバーとして加わり細部にわたって関わっていたことでした。

先入観を持って言うならば、イランのような国でパブリック・リレーションズが、完全な形ではないにせよ組織体に導入され、機能しているとは夢にも思いませんでした。まさに衝撃的な体験でした。

驚いたことにこのシンポジウム開催のつい1カ月前に、同じくテヘランで別のPR団体主催による国際会議(1000人規模)が開催されていたのです。ちなみに関係者の話によるとイランのパブリック・リレーションズに従事している実務家は6万人、そのうち約5千人は大学・大学院でパブリック・リレーションズの専門教育を受けているそうです。

ひるがえって日本では、私の個人的な調査によると、パブリック・リレーションズ(広報・広聴など)に従事する人の数は3万人弱。しかもそのほとんどが未経験者で、専門教育も受けていません。政府関連機関について言えば、広報担当者は2年から3年で他部門への異動のため離れてしまうのが実情です。このような構造的問題も日本におけるPRの発展の障害になっています。

また高等教育でのPR教育導入の必要性はもとより、日本のパブリック・リレーションズ普及の普及が遅れている要因のひとつには、PRやパブリシティ、広報など、パブリック・リレーションズを意味する言葉の乱立があるのではないかということです。パブリック・リレーションズが登場・発展したアメリカ以外の国々でも、パブリック・リレーションズが社会に浸透する上で何が源流(つまりPR)であるかが学問的に明確に理解されており、このような混乱はほとんど見られません。

いつの時代も、政治的に形成される国のイメージと、その国に住む人々の暮らしや生の声をとおして抱くイメージとは必ずしも同一ではないことを過去の歴史は証明しています。しかし今回の出張では、訪問前に抱いていたイランのイメージと実際の姿との乖離の大きさに驚くばかりでした。双方が偏りなく対等に情報流通を行う、対称性の双方向コミュニケーションの必要性も痛感することになりました。

イランでのPRの定着のための取り組みやその熱意を目の当たりにして、改めて日本における真のパブリック・リレーションズ普及へのシステム作りが急務であると痛感し帰国したのでした。
さて、本号は今年最後のブログとなりました。来年もパブリック・リレーションズの実務家、研究者としてさまざまな事柄を皆さんと共に見つめていきたいと考えております。ありがとうございました。

それでは皆さん、良い年をお迎えくださいますよう。

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