母の入院する病室で隣り合っているおばあさんは、大熊町から原発事故の影響でいわきの仮設住宅に避難している方でした。
息子さん家族も避難生活を余儀なくされ、息子さんは地元の信用金庫で働いています。朝は5時に起きて母親の仮設住宅で母の食事の用意をしてから自分たち家族の仮設に戻って子供たちと食事をし、出勤する生活だそうです。
おばあさんは、亡くなった旦那さんの遺骨も納骨できない状況でとても悲しそうでした。
「ベットでじっとしていると余計なことばっかり考えるんでね」と言って、無心に折り紙に取り組んでいました。
3・11の東日本大震災から今日で丁度2年が過ぎました。
上記は、私の会社(株式会社井之上パブリック・リレーションズ)の社員が、いわき市の病院に入院している母親を見舞った時の話です。
漂流する福島「仮の町」
このおばあさんの住んでいた双葉郡大熊町は、東電福島第一原発に5キロメートル未満と近接する町。震災翌日からすべての町民が町を離れ、町には人影も無く家屋の瓦が散乱し、墓地は墓石が倒れたままだそうです。
3月7日の日本経済新聞(朝刊38面)の特集「岐路 東日本大震災2年」で大熊町について、「昨年12月の警戒区域解除後も住民の96%は自宅が帰還困難地域にあり、年間の積算放射線量は50ミリシーベルト超で最低5年間は帰れない」と報じています。
こうした環境の中で、いずれも福島原発の20キロメートル圏内にある大熊、双葉、浪江、富岡の4町は、長期避難を強いられた住民がまとまって住む「仮の町」を整備する構想を相次いで掲げています。
しかし、中核となる福島県の災害公営住宅はたったの500戸しか着工のめどが立っておらず、入居も早くて14年度から。県内避難中の4町民は計約4万人にのぼり、集団移転できる場所の確保はとても困難で500戸はいわき、郡山、会津若松の県内各市に分散配置されそうだとのこと。
長期避難を強いられた住民がまとまって住むという望みを乗せた「仮の町」構想も漂流を余儀なくされたようです。
震災復興のシンボル「奇跡の一本松」の復元
岩手県陸前高田市の海岸線には、かつて7万本の松が立ち並び白砂青松の名勝をつくっていました。
この高田松原が東日本大震災の津波によって壊滅し、1本だけ生き残ったのが樹齢約260年で全長約27メートルといわれる「奇跡の一本松」。
多くの被災者に勇気と希望を与えてきたこの「奇跡の一本松」が昨年9月、保存処理のため伐採されました。このことは、皆さんもテレビや新聞の報道を通してご存知のことと思います。
そして「奇跡の一本松」は、特殊な樹脂で作った枝葉のレプリカが幹に取り付けられて3月6日にモニュメントとして復元されました。
ところがその後、「元の姿と違う」と指摘があって作業をやり直すことになり、3・11の完成を目指し、22日には現地で完成式典が予定されていましたがいずれも間に合わなくなり、延期にされたとのこと。
260年を生き、これからも「震災復興のシンボル」として永遠の時を刻んでいくことを思えば、完成の遅れは些細なことではないでしょうか。
それよりも被災者の心に残る「奇跡の一本松」のイメージと重なるモニュメントとしての復元性が大事なことだと私は思います。
いわき市の名所ともなっている塩屋崎灯台を背に車を海岸線に沿って県道382号線を走らせると、豊間海水浴場に至ります。
写真の「松」はその海水浴場に近く、3・11の津波で周辺をすっかり流されてしまったいわき市郊外の住宅地に残っていました。
写真は前述の当社社員の提供によるものです。
大地をしっかり掴んだ松の根元には誰が書いたのか不明ですが「HOPE」の大きな文字と左側に「・・・・希望の火が消えないように」とメッセージが書き込まれています。
無心に折り紙に取り組むおばあさんに「奇跡の一本松」の復元や「希望(HOPE)の松」(筆者命名)が生きる勇気と希望をもたらし、多くの大熊町の仲間と共に「仮の町」に住み暮らす日が少しでも早く訪れるよう願わずにはいられません。
東日本大震災で亡くなられた犠牲者、そして今も被災地で困難な状況にある、お一人お一人のために心よりお祈り申し上げます。