パブリック・リレーションズ

2006.05.19

パブリック・リレーションズの巨星たち 4リンドバーグの演出家ハリー・ブルーノ

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?

5月20日、チャールズ・リンドバーグによる人類初の単独無着陸大西洋横断飛行の達成からちょうど80年を迎えます。今回は「パブリック・リレーションズの巨星たち」第4弾として、リンドバーグのカウンセラーを務め世紀のヒーロー誕生に一役買ったハリー・ブルーノ(Harry Bruno, 1893-1978)を紹介します。少年の頃から空を飛ぶことを愛したブルーノは米国航空業界に多大な貢献を果たしただけではなく、パブリック・リレーションズの黎明期からその発展にも大きく寄与した実務家です。

1893年2月7日ハリー・ブルーノは、ヘンリー・ブルーノとアニー・ブルーノの長男としてロンドンで産声を上げました。1905年父親が渡米し、ニューヨークで海上保険のオフィスを立ち上げると、その2年後に父ヘンリーは家族を米国に呼び、ニュージャージー州モンクレアに移り住みました。

1903年12月17日ライト兄弟による人類初の有人動力飛行の成功に全米が沸き立つなか、ブルーノは盛んに報じられる動力飛行に魅了され、高校を中退。ニューヨークのウォール・ストリートで使い走りのアルバイトをしながら友人のバーニー・マホンと単葉飛行機作りに励みました。

1910年のクリスマス・イヴには操縦者として自らデザインしたグライダーに乗り込み、265ヤードの飛行を達成。このとき事前に飛行計画を新聞社に送付したことが功を奏し、「少年、グライダーで飛行成功!」とニューヨーク州とニュージャージー州の新聞紙面を賑しました。その注目度は非常に高く、その後、飛行機用エンジンの調達資金獲得のための募金活動が展開されたほどです。このときブルーノはパブリシティのもつ絶大な効果を実感しました。

しかし、1915年5月7日ブルーノ家を悲劇が襲います。両親を乗せたロンドン行きの客船、ルシタニア号がドイツ軍に撃沈されたのです。1917年4月米国による第一次世界大戦への参戦と同時に、ブルーノは空軍に入隊志願しました。

第一次大戦後、ブルーノは航空機製造者協会でパブリシティのアシスタント・ディレクターの職を得て、上司でディレクターのハワード・ミンゴの下でパブリシティの基本を学びます。

そして、大戦後10分の1の規模にまで落ち込んだ航空産業存続のため、航空ショーや大陸横断飛行レースの開催など全米で数多くのキャンペーンを展開。人々に飛行の重要性と安全性への理解を深めるために奔走しました。

1923年友人の紹介でオランダの航空機製造会社フォッカー社のアンソニー・フォッカーと契約を結びます。これを機に、ブルーノは親友のブライスと共同でH.A. Bruno and R.R. Blyth and Associates.をニューヨークで設立。25年に始まったフォード社主催のFord Air Reliability Tourと呼ばれる航空産業の展示会ではフォッカー社のパブリシティを担当しました。

やがて1927年、ブルーノはクライアントの紹介でチャールズ・リンドバーグと運命の出会いをします。1925年、郵便パイロットとしてシカゴ=セントルイス間の最初の飛行をおこなったリンドバーグは、25,000ドルの賞金を賭けたニューヨーク=パリ間の大西洋横断飛行にエントリーしました。しかし彼がニューヨーク=サンディエゴ間の記録保持者でもあったので、飛行前からメディアからの取材が殺到しその対応に窮していました。

とまどうリンドバーグにブライスが付き添う一方、ブルーノはメディアの窓口役を全ておこない公私両面からサポート。またリンドバーグの精神的負担を軽減するため、ニューヨーク・タイムズと125,000ドルで取材の独占契約を結びました。

27年5月20日、いよいよ大西洋横断飛行の日。ブルーノは「雨模様の早朝5時、リンドバーグの傍らで神に祈らずには居られなかった。…..神にすがる思いで見守るなかセントルイス号が空に飛び立ったとき、ヤッターと叫んでしまった。」とその興奮の瞬間を回想しています。ルーズベルト飛行場を出発した機体は翌日パリを一周してル・ブールジュ飛行場に無事に到着。リンドバーグは一躍アメリカで英雄となりました。

このアメリカン・ヒーロー誕生の瞬間は、ブルーノが単なるパブリシティ担当からクライアントを取り巻く全てのパブリックへの対応をおこなうパブリックリレーションズ・カウンセラーへと成長を遂げた瞬間でもありました。そしてこの大西洋横断飛行の成功は、ブルーノの念願であった、「空の旅は安全であること」を証明すると共に、彼のオフィスへの信用度を高める結果ともなったのです。

1930年代のブルーノは、実務家としての職業倫理の徹底や質の向上のためにPR協会の設立に深く関わりました。そしてNational Association of Public Relations Counsel (NAPRC)の理事を3期にわたって務め、パブリック・リレーションズの発展のために積極的に活動しました。彼の世間での評価は高く、1942年11月、雑誌Coronetはブルーノをエドワード・バーネイズと共に米国のパブリシスト・トップ6としてランクインさせています。

第二次世界大戦後の1954年、1934年に病気で引退したブライスのあとのH.A. Bruno and R.R. Blyth and Associates.を法人化しH. A. Bruno & Associates Inc.と改名。パブリック・リレーションズのオフィスとして、ジャーナリズム経験者やPRの実務経験のあるスタッフと共に、株主や消費者そして政府など、組織を取り巻く全てのパブリックに対応する本格的な体制を整えました。

その後1969年ブルーノは、同社をラルフ・イアヌッチに譲り引退。イアヌッチは社名をH. A. Bruno Inc.に改名。90年にはBlenheim Exhibitions PLCと合併。その名をBruno-Blenheimとしました。トレードショーのマネジメント会社との合併を機にマネジメント業に特化。パブリック・リレーションズの世界からブルーノの社名は姿を消すこととなりました。

1978年3月21日、ハリー・ブルーノは航空に捧げた生涯を終え、85歳でこの世を去りました。大空への飛行に魅了された少年ハリー・ブルーノの人生は、常に航空産業そしてその発展を支えたパイオニア達と共にありました。私生活ではポーランド系のスター、ナディア・ソスノーシュカと結婚し、明るく社交的で人間味あふれるブルーノは晩年まで多くの友人に囲まれて生活したようです。

22年米国横断飛行した飛行家ジェームズ・ドゥーリトルは後に彼らの功績を称えて「ブルーノとブライスは、航空とその潜在的な力を理解した上で、その魅力を人々に正しく伝えた最初の人物である」と賛辞を送ったといわれています。

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