パブリック・リレーションズ

2010.09.23

テニーさんとの再会 〜「バターン死の行進」元米捕虜の願い

こんにちは、井之上喬です。
先日、元米軍兵のレスター・テニー(90歳)さんと7年振りに再会しました。

皆さん、第2次世界大戦中にフィリッピン戦線で起きた、「バターン死の行進」をご存知ですか?
「バターン死の行進」とは、1942年の4月9日、日本軍が総攻撃でフィリピン・バターン半島の米軍基地を占領。降伏した約1万2千人の米軍捕虜と現地人などをあわせた8万人を超える人間を、炎天下約80キロ歩かせ数千人の死者を出したとされる事件。

これら捕虜はその後日本や旧満州に送られ強制労働をさせられ多数が命を落としました。
その中の一人に、レスター・テニー博士(元アリゾナ大学教授)がいました。
テニーさんはこの「バターン死の行進」で、九死に一生を得た翌年、福岡県大牟田の収容所に移送され、三井三池炭鉱で敗戦までの約3年間強制労働に従事しました。

全員写真:2列目右から3番目がテニーさん、その左隣がベティ夫人

日本の外相として初めて謝罪

テニーさんと初めてお会いしたのは2003年、彼が自署の日本語版上梓のために来日したとき。
米国のPOW(prison of war:戦争捕虜)事務局の依頼で、私の経営するPR会社、井之上PRがパブリック・リレーションズ(PR)の仕事を通して親しくさせていただいたのでした。

テニーさんは、「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」の最後の会長も勤め、米国捕虜の指導者として長年POWメンバーのために尽力してきた人。

今回の来日は、日本政府による米国人元戦争捕虜招聘プログラム(外務省北米第一課)で招待されたものです。
テニーさんとの再会は、私が以前テニーさんと関わりを持っていたことを知った外務省広報文化交流部総合計画課の林禎二課長の取り計らいで実現したのでした。

これまで政府は英国、オーストラリア、オランダの元捕虜を招待してきましたが、米国からの元捕虜招待は初めて。今回は6人の元米兵捕虜とその家族あわせて14人が招かれました。

滞在中、一行は岡田外務大臣(当時)と面会。岡田外相は日本の外務大臣として初めて、非人道的な扱いを受けた元捕虜に対して謝罪しました。

憎しみは自己破壊を起こす

テニーさんは捕虜時代に、日本軍将校から軍刀で肩を切りつけられたり、数々の虐待を受けたといいます。その時に痛めた膝は今でも後遺症として残っています。

2003年にテニーさんとお会いしたときの彼の話しは今でも心に深く焼き付いています。テニーさんは、次のような魂に触れる話をしてくれました。

戦後彼は、日本や日本人を憎みに憎んだそうです。やがてあるとき、自身の中に自己変革を起こしたといいます。
それは「人を憎むことは、自分を傷つけるだけ」ということ。長年の苦しみの末に、相手を受け入れ、許すことの大切さを学び取ったといいます。

これを境に、テニーさんは日本人を憎むことを止めたとし、それにより自らも救われたと述懐したのでした。

日本政府からの謝罪をとりつけたいま、彼の願いは戦時中にこれら強制労働者を受け入れた60社を超える日本企業から、その道義的責任として謝罪の言葉を得ることとしています。老い先長くない元捕虜にとって、企業からの謝罪はきっと心の癒しになるはず。

手品を披露するテニーさん | いつも一緒のテニー夫妻

会場で偶然に民主党参議院議員の藤田幸久(前民主党国際局長)さんにお会いしました。以前からテニーさんと交流を持ち今回の招聘に尽力されたとのこと。

テニーさんと7年前にお会いしたとき、彼は「紐」を使った手品を披露してくれました。簡単なようで仕掛けが判らない手品。先週開催された、武正外務副大臣(当時)主催のフェアウエル・パーティ会場で、私はこの紐を使った手品をもう一度披露してくれるようテニーさんに頼みました。

壇上で出席者にカタコトの日本語を交え楽しそうに披露する陽気なテニーさん。その姿は平和の使者そのものでした。
(写真提供は、上段と下段左はJTBの内田喜久さん、同右は外務省の黒澤 華子さんによる)

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