こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?
今週は、『体系パブリック・リレーションズ』( Effective Public Relations (EPR)第9版の邦訳:ピアソン・エデュケーション)をご紹介します。EPRは米国で半世紀以上のロングセラーを記録するパブリック・リレーションズ(PR)のバイブル的な本で、日本語翻訳メンバーには私も加わり昨秋発売されました。
20世紀初頭に米国で登場・体系化されたとされるパブリック・リレーションズ。その登場から現代に至る発展史について本書では大きく7つの期間に分けて解説しています。今回は、第4章「パブリック・リレーションズの歴史的発展」の3回目として米国におけるパブリック・リレーションズの苗床期(1900?1916)におけるエポック・メイキングな事象を紹介していきます。
私がこのブログを書きはじめた最初の頃(2005年8月)、「PRの父」と呼ばれている米国の実務家アイビー・リー(1877-1934)の紹介を中心に、その背景となった米国の苗床期に言及したことがあります。この時期にはパブリック・リレーションズ(PR)会社の前身となる「パブリシティ会社」が次々と産声を挙げ、私たちと同じ実務家である多くの先駆者たちが登場しています。
米国における苗床期(1900-1916)
本書では、この時期について「不正摘発を目指すジャーナリズムに対して防衛的なパブリシティで抵抗した時代。さらに、パブリック・リレーションズのスキルを利用してセオドア・ ルーズベルトとウッドロー・ ウィルソンが広範な政治改革を促進した時代」としています。
米国初のパブリシティ会社は米国東海岸のボストンで「パブリシティ・ビューロー社」(ジョージ・ミカレス社長)。1900年の半ばに「できるだけ多くのクライアントに、商取引において許される限り高い料金で、全般的なプレスエージェント業を提供するため」にボストンで設立されたと本書に記されています。そして2番目の設立は、1902年にワシントンD.C.でウイリアム・スミスによる「スミス&ウォルマー社」。ニューヨークで初めて設立された会社は、アイビー・リーとジョージ・パーカーによる「パーカー&リー社」で3番目のパブリシティ会社です。
4番目の会社は1908年、西海岸のサンフランシスコで設立された「ハミルトン・ライト・オーガニゼーション社」。5番目は、「ペンドルトン・ダッドレイ・アンド・アソシエイツ社」で、ペンドルトン・ダッドレイが友人のアイビー・リーの助言を受けて、1909年にニューヨークのウォールストリート地区で設立されました。
PRの先駆者たちの登場
この苗床期においては多くの偉大な先駆者が登場しますが、紙面の関係もありここでは3人の紹介にとどめます。
先ずはアイビー・リー。本書では次のように彼の功績を称えています。「今日のパブリック・リレーションズの実務の土台作りに大きく貢献した。彼は少なくとも1919年までは『パブリック・リレーションズ』という用語を使用しなかったが、現在にも引き継がれている多くの技法と原則を生み出した。(中略)業界の最も説得力を持った代表者の一人として、リーが行った実務と講演活動によって、パブリック・リレーションズは新たな専門職になった。」
2人目は、レックス・F・ハーロウで、本書では彼を次のように紹介しています。「ハーロウのキャリアは、パブリック・リレーションズという業務が、誕生間もない、不確実な使命感を帯びていた時期から、1980年代の成熟期へと進化していく過程と重なっており、今日の実務の形成に貢献した。1939年にスタンフォード大学で教鞭をとっているときに、パブリック・リレーションズ科目を教え始め、米国パブリック・リレーションズ評議会(ACPR)を創設した。1945年、彼は月刊誌『パブリック・リレーションズ・ジャーナル』を創刊し、パブリック・リレーションズ・ソサエティ・オブ・アメリカによって1995年まで刊行された。ハーロウは1993年4月16日、100歳でこの世を去った。」
3人目はセオドア・N・ベイル。米国電話電信会社(AT&Tの前身)は、パブリック・リレーションズと電話通信の先駆的企業だったといわれています。同社は、前述の米国初のパブリシティ会社「パブリシティ・ビューロー社」の最初のクライアントの一つでもありました。本書でベイルがディレクターとして1902年に同社に復職後、パブリック・リレーションズに対する方針が打ちだされますが、1907年にベイルが社長に就任して、より明確となったと記しています。またベイルは、ジェームズ・D・エルスワースを雇用し、パブリシティと広告プログラムを展開します。そうした中で、次のような「1912年のAT&Tにおけるパブリック・リレーションズ局の(設置)提案」が生まれました。
「AT&Tにパブリック・リレーションズ局を設置し、電話会社とパブリックとの関係をめぐる全情報を集約して利用できるようにすれば、会社内の各部門や運営会社で、現在個別に行っている仕事の多くを統合することができる。(中略)また、世論のトレンドや法律の流れに注意を向けることができ、これらを研究すれば、そのときどきの市民感情の大局的意向を要約した形式にして、経営幹部に注意を向けさせることができる。」
そして、「また、電話会社は法律の新たな段階に対応することができ、多くの場合、トラブルの原因となっていた状態を修正して法律の機先を制することもできる。このような疑問に関する資料を収集、分析、配布する中心的組織を設置することにより、その分野の仕事に実際に従事していた人の時間を著しく削減でき、問題の対応についても、範囲を拡大してもっと効率的にできるようになるであろう。」
およそ100年も前の上記提案の中には、既に双方向性コミュニケーションの考え方やイッシュ・マネジメントの概念も抱合されていて、この提案が当時画期的なものであったことが想像できます。米国の先駆者の心意気が伝わってくるようです。皆さんはどのような感想をもたれましたか。