こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?
今週は、『体系パブリック・リレーションズ』( Effective Public Relations (EPR)第9版の邦訳:ピアソン・エデュケーション)をご紹介します。EPRは米国で半世紀以上のロングセラーを記録するパブリック・リレーションズ(PR)のバイブル的な本で、日本語翻訳メンバーには私も加わり昨秋発売されました。
20世紀初頭に米国で登場・体系化されたとされるパブリック・リレーションズ。今回は、第4章の「パブリック・リレーションズの歴史的発展」(井上邦夫訳)の中から2回目として18世紀のアメリカ合衆国の独立後から企業における最初のパブリック・リレーションズ部門が設置された19世紀末までのエポックメイキングな事象を紹介していきます。
最初の全米規模の政治キャンペーン
独立を果たしたアメリカ合衆国において、パブリック・リレーションズの次なる大きな目標は、1787年から1788年にかけてアレキサンダー・ハミルトンやジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイが新聞に投稿した85通の書簡集、The Federalist Papers の発行でした。
これらの書簡は、憲法を批准するよう力説するものであり、ある歴史学者は新しい国の「最初の全国規模の政治キャンペーン」と呼んでいます。
本書では、「Federalist の執筆者らは、憲法に反対する流れをかわして支持を得るなど、歴史に残る最高のパブリック・リレーションズの仕事を成し遂げた」とその功績を称賛しています。また、歴史学者アラン・ネビンズは、アレキサンダー・ハミルトンの業績を「史上最高のパブリック・リレーションズの仕事」として本書で以下のように述べています。
「憲法に対して国民の容認を得ることは、本来、パブリック・リレーションズの実務であり、ハミルトンはPRの鋭い天性をもって、憲法に対してのみならず、思慮深い人々が黙認せざるをえない状況にも配慮し、他者に自分の意見を伝えた…。いざ憲法が国民の前に示されたとき、ハミルトンが取った迅速な行動は、優れたパブリック・リレーションズの典型例だった。」とし、「世論に意見の空白が生じると、無知で愚かな意見がその空白を埋めることを彼は知っていた。正確な事実と健全な考えを提供するために、時間を無駄にすべきではないのである。」と、現代にそのまま通ずる鋭い洞察を行っています。
もちろんこの時代、パブリック・リレーションズという言葉はまだ使用されていませんでしたが、本書はパブリック・リレーションズの発達過程について、「政治改革運動に誘発された権力闘争と密接に結びついている。これらの運動は既成の権力グループに反対する強い潮流を反映しており、パブリック・リレーションズの実務の成長に触媒として大いに機能した。」とパブリック・リレーションズの発展に政治運動が深くかかわっていることを示しています。
さらに、「なぜならば、政治・経済的集団の主導権争いは、市民を味方につける必要性を生み出したからである」とし、「パブリック・リレーションズは、市民社会の容認を得て、進歩する技術を迅速に利用する必要性があるときにも成長した」と述べています。
プレスエージェントリーの誕生
パブリック・リレーションズはプレスエージェントリーから進化したといわれています。およそ1850年頃のことです。
この点について本書では「我々がパブリック・リレーションズと定義するものの多くは、定住民のいない米国西部への植民を促進するため、あるいは政治的英雄を作り上げるために使用されたときには、プレスエージェントリーと呼ばれた」としています。
米国で歴史的進化を遂げるパブリック・リレーションズを4つのモデルに分類した研究家として知られるジェームス・グルーニッグ博士は、「このモデルはパブリック・リレーションズの最初の歴史的特性を示しており、その目的は、いかなる可能性をも持って組織や製品・サービスをパブリサイズ(広告・宣伝)すること。一方向性コミュニケーションで、情報発信する組織体がターゲットとするパブリックへのコントロールを手助けするためのプロパガンダ型手法である。この時期には完全な事実情報が常に発信されていたわけではない」(『パブリック・リレーションズ』2006、日本評論社)とコメントしています。
この時期に登場した歴史上の代表的な実務家は、ショービジネス界で活躍したP.T.バーナム(1810-1891)。本書は、「成功は模倣者を生む。バーナムは道筋をつけ、多くの者が従い、その数は絶えず増加している。1900年以前の20年間に、プレスエージェントリーは、ショービジネスから密接に関係する企業まで広がった」と記しています。
1875年から1900年の間の米国社会は人口が倍増し、大量生産の促進とともに強力な独占企業が興隆し、富と権力の集中が行われ、鉄道と有線通信の全国的拡大は新聞や雑誌などのマスメディアの発達を加速させていきます。こうした背景の中から現代のパブリック・リレーションズは生まれたのです。
1889年にはジョージ・ウェスティングハウスの経営する新たな電気会社に、企業初となるパブリック・リレーションズ部門が設置されました。ウェスティングハウス(WH)社は当時としては画期的な交流式電気を促進するため、1886年に創業しています。この時期、すでにトーマス・A・エジソンは、直流式を使うエジソン・ゼネラル・エレクトリック(EGE)社を立ち上げていました。
本書では、両社による悪名高い「電流の戦い」をフォレスト・マクドナルドの言葉を引用し、「エジソン・ゼネラル・エレクトリック社は、破廉恥な政治行動や評判の良くないプロモーション戦術によって、交流式の発達を阻止しようとした・・・。プロモーション活動は、高圧交流の猛烈さを劇的に示すことを狙った一連の目を見張るものであり、最もセンセーショナルなものは、(WHによる)死刑執行の手段である電気イスの開発とプロモーションだった。」とする一方、WHによるEGEへの対抗的なメディア・プロモーションについても触れています。
19世紀末の「電流の戦い」や220年以上も前に国家の在りかたの根幹をなすアメリカ合衆国憲法の制定にパブリック・リレーションズ(PR)の手法が用いられていたことを知るにつけ、さすがはPR先進国だという感慨を抱かざるを得ません。皆さんはどのような感想をもたれましたか。