こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?
今週は先週に続いて、米国で半世紀以上の-ロングセラーを記録する Effective Public Relations 第9版の邦訳『体系パブリック・リレーションズ』(9月20日発売:ピアソン・エデュケーション)をご紹介します。
今回は、第5章の「倫理とプロフェッショナリズム」(伊吹勇亮訳)の中の「功利主義」と「義務論」について紐解きます。善と悪は倫理における普遍的なテーマですが、同書では功利主義と義務論は、倫理的な意思決定における道徳哲学の2つのアプローチとし、組織体の意思決定の倫理について、パブリック・リレーションズ(PR)の専門家が経営トップに評価と助言を行う上で役立つものとしています。
「最大多数のための最大幸福」
皆さんは上のタイトルを時々耳にしたことがあると思います。これは功利主義を端的に表す言葉です。ジェレミー・ベンサムが創始し、その後教え子のジョン・スチュアート・ミルが継承した功利主義は、意思決定の利益を最大多数のために最大化しそれ以外の人々に及ぶ悪の帰結を最小化しょうとする。この種の哲学が協調するのは、パブリックに善を提供すること、あるいは社会の最大多数に提供することであると論じられています。
カトリップらは、「功利主義的観点から行動の道徳性を判断する場合、パブリック・リレーションズの専門家はいずれの選択肢が最大多数に最大量の善を生み出すかを判断して選択肢全体から考慮し、実務家は正の成果を最大化し、負の成果または危害を最小化する選択肢を採用する。」と記述しています。
カトリップらは、功利主義は通常のビジネス上の倫理的な意思決定で最も一般的なアプローチとしながらも、その有用性の限界も指摘しています。つまり、功利主義においては最大多数が幸福であっても少数派は不幸な現状を意図的または気付かずに正当化されるとし、多数派を常に優先すると、組織体は市民やステークホルダーから始まる変化に対応できなくなると論じています。
確かに、新しい秩序や枠組みが形成されるときには少数の意見に始まりやがて多数に拡大します。功利主義に走りすぎるとそのような芽を摘んでしまうことになるという恐れを孕んでいます。
「正しいことをせよ」
一方、この反対に義務論が位置します。上の言葉は義務論を端的に説明することば。ドイツの哲学者イマニュエル・カントによって確立させた倫理。カトリップやシャノン・ボーウェンらは、「義務論の倫理は、予測された成果に基づく道徳的決定をベースにするのではなく、道徳原則そのものに焦点を絞る」ものとしています。また「このアプローチは、倫理は、成果ではなく義務によって導くことを維持するため、『非結果主義』とも呼ばれる。」と論じています。
カトリップやボーウェンらは、義務論は我々の道徳的義務が正しい行動の道を示すことであるとし、複雑な状況の中で、何が正しいのかをどのように知ればいいのか問いかけ、倫理的に何が正しいかを決定する方法は、絶対義務として知られる義務の意思決定基準により明らかになるとしています。
そして絶対義務には、カントの言うところの人間の「意図するもの」、つまり決断時に影響を及ぼす潜在的な意思、そして他者への尊厳と敬意を測る2つの側面があると論じています。義務論では、「善意」以外の動機は堕落と見なすために、善意が意思決定における唯一の真の指針であると論じています。
これらをまとめると、義務論において倫理的であることは、善意と他人に対する尊厳や敬意に基づく道徳上の義務を果たし、相互利益を実現することであるといえます。
こうしてみてみると、アメリカ(欧米)の倫理には、功利主義と義務論という道徳哲学における2つのアプローチが補完関係をなしているといえます。わかりやすく解説すると、最大多数のための幸福からこぼれ落ちた人々に善意の手を差し伸べるということになります。
ちなみに、この5章の共著者であるシャノン・ボーウェン教授は2007年の2月、メリーランド大学教授時代に、私を同大学院の授業に招いて下さり「自己修正モデル」について米国初の講義を行うチャンスを下さった人。米国を代表する、パブリック・リレーションズ倫理研究の第一人者です。
このところ、内外でさまざまな不祥事や問題が続発しています。そこには経営トップにこうした倫理観が希薄なことが窺えます。倫理観のないガバナンスやコンプライアンスは名ばかりのものでしかありません。
こうした時代にあってパブリック・リレーションズの実務家には、その根底に揺るぐことのないバックボーン(倫理観)が強く求められているといえます。