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2008.10.04

私の心に残る本 19 『トゥイーの日記』 ベトナム帰還兵の手から祖国に戻った、  北ベトナム従軍女性医師の日記

トゥイーの日記こんにちは、井之上喬です。
10月に入り、紅葉の便りが各地から聞かれるようになりました。皆さんいかがお過ごしですか?

『トゥイーの日記』(訳者:高橋和泉、経済界刊)は、ベトナム戦争の戦場に散った北ベトナムの若い従軍女性医師の日記。著者はダン・トゥイー・チャム。原作となるこの日記は、ベトナム戦争に赴いたアメリカ兵フレッド・ホワイトハーストが、戦場で殺された北ベトナムの従軍女性医師が書き綴ったものを米国に持ち帰り、彼女の死から35年を経てトゥイーの母の手に戻されたものです。

ハノイの病院で医者をやっていた父と薬学者で大学講師の母を両親に持トゥイーは、ハノイ医科大学を卒業後、あえて南ベトナムの激戦地で勤務する道を選びます。1960年代から75年までの約15年にわたって繰り広げられたベトナム戦争の真っただ中、1966年12月、トゥイーはホーチミン・ルートを3ヵ月間歩き続け、目的地の南北非武装地帯であるクアンガイ省に到着。軍医として野戦病院で働いたのでした。

米国に日記を持ち帰った米兵ホワイトハースト

本の序文で、1973年ピューリッアー賞を受賞したジャーナリスト、フランシス・フィッツジェラルドが語っているように、1970年、ベトナム戦争当時、軍の情報部に所属する若き日のホワイトハーストの任務は、収集した資料を調査し、軍事的価値のないものに関しては処分することでした。ある日、彼は、通訳のグェン・チュン・ヒュー軍曹とともに燃えさかるドラム缶の中に必要のない資料を投げ入れていると、突然「フレッドそれは焼くな。それ自体が炎を出している。」というヒューの言葉に、ホワイトハーストはおどろきながらも、厚紙の表紙で綴じられたノートと、さらに、もう一冊のノートを保管しておくことにしたのでした。

その夜、ヒューはそのノートに書かれた日記の一節をホワイトハーストに読み聞かせます。海軍将校の息子で、ベトナム志願兵でもあったホワイトハーストは、「人間対人間として、わたしは彼女と恋に落ちた」と後に述べたように、その日記に心を奪われました。そして、軍の任務を終え、1972年ベトナムを去るとき、彼は軍規に反して日記を家に持ち帰ったのです。そして、その日記は彼の書類整理棚に置かれることになりました。彼は、しばしば日記をトゥイーの家族へ送りたいと考えていましたが、家族を探し出す当てはありませんでした。

やがて彼は「日記が出版できれば、家族が見つかるかもしれない」と考え、ベトナム人を妻に持ち、ベトナム退役軍人でもある彼の弟ロブに日記を渡したのでした。ベトナム語を理解していたロブにより、翻訳作業も進み日記を家族のもとに返す目的を兄弟は共有することになります。

2005年6月、母の手に届けられた日記はすぐに出版され、ベトナムでは空前のヒット作になりました。5000部以上売れる本がほとんどないベトナムで、43万部を売り上げる大ヒットとなりました。ベトナム戦争を知らない若い世代(全人口の3分の2)の心に強く訴えたのです。2005年8月、2人の兄弟が家族に会いにハノイを訪問しました。空港では、ジャーナリストを含む多くの人々が彼らを迎えました。ファン・ヴァン・カイ首相(当時)もその一人。彼らは一躍有名人になっていたといいます。

トゥイー・チャムの生きた時代

ダン・トゥイー・チャムの日記は、テト攻勢から2ヵ月後の1968年4月8日に始まっています。ベトナム中部クアンガイ省の山岳地帯にある野戦病院への派遣には難色を示されるほど小柄なトゥイーが南ベトナムに行ったのは、愛国心とともに、彼女が16歳のときから愛していた「M」と呼ばれる男性のためでもありました。Mはベトナム中部でゲリラ戦に加わり、その後南ベトナム解放戦線で土木工兵隊の隊長兼行政主任で英雄的な評判を得ていたようです。

1965年の春、アメリカの最初の戦闘部隊がベトナムにやってきた2ヵ月後、第3海兵隊上陸部隊がクアンガイに派遣され、米軍による北ベトナム正規軍とゲリラ部隊に対する猛攻撃が開始されました。

米軍は「アメリカ海兵隊は、ベトコンをかくまっているあらゆる村や部落を躊躇せず即刻破壊する」と書かれたビラを村に撒いていました。やがて世界を震撼させる事件が起きます。1968年3月16日、第11軽歩兵旅団からの小隊がクアンガイ省北部のソンミ村に入り、老人と女性と子どもたち504名を溝の中の一箇所に集め、銃で撃ち殺したのです。この出来事は1年以上も隠され、ソンミの虐殺として知られるようになりました。

1969年4月2日、診療所の近くが襲撃され、患者と診療所の職員たちは、そこから立ち去ることを余儀なくさせられました。1970年6月2日、仮設診療所が爆撃されたときには、5名が命を落とします。12日再度爆撃されたときは、密告者が居場所を明かしたにちがいないと考えます。その翌日、トゥイーを含めた女性医師3名と重症を負った男性5名を除き、全員がそこを立ち去ります。診療所に勤める党の政治委員は、彼女たちと一緒に残ろうとせず逃げてしまったのです。

6月20日はトゥイーの日記が終わった最後の日。夕食用に、たった1杯の米しか残っていないという状況下で、トゥイーは自分たちが見捨てられたのではないかと案じながら、助けを求めるために同僚の若い女性2名を送り出します。

死が迫りくる最後に、トゥイーは日記の中でこう書いています。「今まで誰もかえって来ない。2回目の爆撃をうけてから10日近くたっている。(中略)この危険な地域から私たちを避難させるためきっとすぐ迎えに戻ると約束して出て行った。それ以来、私たちは1分1秒を数えるように待っている。朝になれば昼を待ち、昼になれば夕刻を待つ。2日、3日・・・9日が過ぎたのに誰も戻ってこないなんて!残っている者たちの頭の中でグルグルまわっている。どうして?なぜ誰も戻ってこないのだろう?何か問題が起こったのだろうか?」
「みんなが私たちをこんなところに見捨てて行くはずないじゃないか?この問いかけに答えてくれる人は誰もいない。(中略)私は、小さな声で詩の一節を口ずさんでいた。『今、目の前に広がる果てしない海と空 ホーおじさん、私たちの不安をわかってくれますか・・・・・・』そう、私はいつまでも幼い子どもではないのだ。この試練の中、経験を積み、大人になったのだ。それなのになぜ、こんなにも母さんの手をこれほどいとおしく求めるのか?自分自身を見つめなさい。孤独な時は自分の手を握り、愛を注ぎ、力を与え、そして目の前の険しい道を乗り越えていきなさい。」

彼女の日記はそこで終わっています。その後、アメリカ軍が再度攻めてきます。そして数日後、地元のフレ族という少数民族が、額に弾丸を撃ち込まれて死亡している彼女の遺体を発見するのです。

序文にもあるように、「これは、戦争の記録ではない、過酷な状況でも、希望を捨てずに、人生を生き切ったひとりの女性の話である」。トゥイー・チャムの遺志を継ぐために、彼女の名を冠した奨学金設立や病院設立などの人道活動が広がっているといいます。

トゥイーとは面識もなく、偶然に日記を見つけたアメリカ兵フレッド・ホワイトハース。同書の終わりにフレッド・ホワイトハーストは年老いたトゥイーの母親に2通の感動的な手紙を書き送っています。是非手にして読まれることをお勧めします。

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