交遊録

2005.08.29

「水しぶきのなかの青春」―湘南高校との想い出―

数年前の5月、私の所属する日本パブリックリレーションズ協会のパーティで、体格のがっちりした白髪の口髭をたくわえた同年輩の紳士から「イノウエ・エースケさんですか?」と尋ねられました。 突然の「エースケ」…。私を個人的に知っている高校時代の友人や知人の間でしか使われていない、社会に出てほとんど使われることのなかったこの名前の響きに戸惑いと懐かしさを感じながら「そうですが…」と答えました。「ひょっとすると、昔、立川高校の水泳部で泳いでいたA助さんですか?」。当時、都立立川高校の水泳部には同じ学年の男子部員でイノウエ姓を持つそれぞれA、B、Cの三人の「助さん」がいたのです。私を40年前に突如タイムスリップさせてくれた、この日焼けした紳士は中島邦信さんといって、一学年下で神奈川県立湘南高校の水泳部で平泳ぎを得意としていた人だったのです。

私にとって、毎年会場を交互に使い開催される湘南高校との対抗戦は、水泳に青春を捧げた高校時代の想い出の中でも特に忘れがたいものでした。中島さんは、湘南高校水泳部で当時立川高校との水泳の対抗戦のことを懐かしそうに話してくれました。

高校一年(昭和35年)の夏に開催された対抗戦は立川で行われました。そして、二年の夏の対抗戦は湘南のプールでした。男子部員だけの私たちは、この湘南での対抗戦に大きく期待を膨らませていたのです。「湘南に行くとかわいい女子生徒が試合の後に美味しいカレ?ライスを作ってふるまってくれるよ」と先輩諸氏が、いつもカルキの匂いがする立高プールでの練習の合間に、話をしてくれていたからでした。そして純真無垢な少年たちは緊張感と熱いものを身に感じながら湘南高校へのりこみました。

海にほど近い、小高い丘の上にある高校は明るい鮮やかな緑に映え、片側に土手があるプールサイドはとても眩しくみえました。試合後の歓迎食事会は期待どおりエプロン掛けの女子生徒による心づくしのカレーが用意されていました。試合後の腹を空かした選手達にとってそれは最高のもてなしでした。

私の高校時代は水泳そのものでした。しかし社会に出た今でも心の何処かに持ちつづけるある種の不完全燃焼感があります。私は高校二年の夏頃から密かに、64年(大学二年の年)の東京オリンピックに出場する夢を抱いており、できうることならば当時山中毅を始め多くのオリンピック選手を擁していた早稲田大学に入り、よき指導者を得て、そこから出場することが最適と考えていました。

しかし、公立校でのスポーツ環境を考えると心は焦るばかり。この時間との戦いに押されるように、高校二年の三月、先輩の紹介で東伏見にある早大水泳部〈稲泳会〉の合宿所に通うことになりました。シーズン始めの合宿所はランニングをしたり、コース・ロープのない波立つ長水路(50m)プールでめいめいが自分の泳ぎをチェック。

多くのオリンピック・スイマーに囲まれての練習は胸ときめくものでしたが、この合宿所で私の自由形 (クロール)は使い物にならないものとなったのです。当時、世界のクロール泳法は、腕を水中で直線状に素早くかききるアメリカ型ピッチ泳法(当時一過性で流行った泳法)が主流。コーチに言われるまま、私の泳法は日本人には向かないその泳法に改造され泳ぎがガタガタになってしまいました。卒業後暫くして判ったことですが、私のそれは、現在世界で取り入れている泳法、つまり大きなストロークで腕を体の中心から大腿いっぱいまでかき切る泳法だったのです。

その後、高校と大学合宿所との往復や受験期の精神的なストレスで体調を崩し、三年になって急速に水泳への情熱を失ってしまいました。
結局その夏のインターハイの関東大会へは400m個人メドレーで出場しましたが、17歳の私の夢ははかなく潰えてしまいました。
中島さんとの出会いはそんな40年前の記憶をカルキの匂いと共に蘇らせてくれたのです。彼からありがたくも、その年の8月、湘南高校水泳部の70周年の総会に招待され、プールで一緒に競泳するなど心温まる歓迎を受けました。高校時代たった一度の訪問でしたが、なだらかな丘陵にある懐かしい校舎や、そのたたずまいは、水しぶきのなかで青春を分かち合った同輩・諸兄との再会をよりノスタルジックなものにしてくれました。

現在、公共広告機構の常務理事をしている中島さんとは、以来時々お会いしては往時の懐かしい想い出を語り合っています。
個人競技の水泳は、ある意味で孤独で忍耐を必要とするスポーツです。水泳で培われた経験があってこそ、新しい分野であるパブリック・リレーションズの仕事を長年続けることができたのだと感謝しています。

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