交遊録

2005.08.01

「千の風」になった高崎望さんを偲んで。〜偉大な戦略家との25年

昨年7月24日に亡くなられた高崎望さんの一周忌をむかえ、7月23日土曜日に偲ぶ会がひそやかに開かれました。

高崎絢子夫人から杉並区久我山にあるご自宅に招かれた人たちは、学生時代の友人で日本電信電話公社(NTT)で同期生だった元NTTドコモ社長の大星公二さん、同じく学生時代からの友人でNTTの同期生、現在中央大学教授の浦山重郎さん、神田外語大学名誉教授の古田暁さん、そして私の4人で、生前の高崎さんとのいろいろな思い出を語り合いました。

高崎さんは、とても一途な人でした。東京大学時代に、法学部の全学連のリーダー的役割を果たしたことがある情熱家で、思いついたら昼も夜も関係なく24時間集中して、エネルギッシュに仕事を進めていく、そんな人でした。

物事を組み立てていく上での戦略的思考には目を見張るものがあり、その高い見識に加え、情報収集・分析力、洞察力、緻密なシナリオ作成力、そしてフレキシビリティと危機管理能力など戦略家としての必要な要件をすべて兼ね備えた人といえます。一回り以上も年の離れた私にとっては、良き友人であり、先輩、そして何よりもパブリック・リレーションズの良き理解者でした。

駐日大使をしていたエドウィン・ライシャワー(ハーバード大教授)さんとは、高崎さんの母上の代から親戚づきあいをしており、そこから得られた米国知日家の人脈は相当なものでした。また、NTT時代にマサチュセッツ工科大学(MIT)への留学経験がある高崎さんは国際通で、日本と諸外国との間に横たわる問題に精通したきわめてユニークな情報通信の専門家でした。

高崎さんとの最初の出会いは、1980年、高崎さんがNTTから電気通信総合研究所へ出向していた当時、私がアメリカの国内衛星や地域衛星の情報に明るいということで面会を求められたのがきっかけでした。高崎さん、49才、私が36才のときでした。以来、高崎さんとは実に多くのプロジェクトを共にすることになります。

知り合った頃の高崎さんは、後に第三次中曽根政権の外務大臣になる倉成正さんの筆頭ブレーンとして情報通信分野で活躍していました。大型通信衛星を利用した衛星通信の導入の推進役を担っていて、1980年、当時の米国情報通信局局長のジョン・イエーガー氏と共に、電気通信の普及拡大を目指したNGO組織、PTCを設立(太平洋電気通信協議会、本部:ホノルルhttp://www.ptc.org)し副理事長に就任していました。私も高崎さんの勧めでその創生期にPR業界からは異例の参加で、彼と共に、80年代前半、日本の大型通信衛星による衛星通信の導入に向けて仕事をしました。

高崎さんは、通信市場の規制緩和と国際化のうねりの中で、日米折衝の最前線に身を置き、80年代初頭における日本の通信政策の実質的なドラフトを描いた人でもあります。

日米の経済関係が逆転した80年代前半、アメリカは強烈な対日プレッシャーをかけてきました。対日貿易不均衡のなかで激化する日米通信摩擦では、当時、離島や災害対策用の通信衛星(重量:数百kg)しか導入していない日本に対して、アメリカは大型通信衛星の購入を要求してきました。ロビーレベルでの折衝をおこなっていた高崎さんは、難色を示す日本政府に通信市場の開放と大型衛星導入を強く迫った、米国のオルマー商務次官と気魄せまるやり取りをし、もはや高崎さんなしには通信政策は語れないほどになっていきました。

そんな中、高崎さんは、NTTが推進する光ファイバー主体のISDN構想に対し、日本の経済発展を鑑み、大型通信衛星導入(重量:2?4トン)による国内・国際通信ネットワークの必要性を唱え、その実現に奔走したのでした。この頃の高崎さんはもっとも輝いていたといえます。

1982年に起きた日立IBM事件では、彼と親交の深かったIBMの中興の祖、トム・ワトソン・ジュニア(ケネディ時代の駐ソ大使でもあった人)や当時のIBMオペル会長に対し、日本の立場を擁護しつつ適切なアドバイスを行ったり、通信業界の人脈を生かし、翌年の両社和解へ向かう布石を打ちました。通信の世界のネットワーク力は通常のビジネス分野のそれより強固なもので、高崎さんの持つ世界的で豊富な人脈には目を見張るものがありました。

日米半導体摩擦、自動車摩擦のときに、私がアメリカ側のパブリック・リレーションズのコンサルタントとして関わっていたときに多面的なアドバイスをくれたのも高崎さんでした。

考えついたら深夜の2ー3時、明け方の4ー5時、まさに夜討ち朝駆けでよく自宅に電話があったものです。一度、問題にとり組んだら驚異的な集中力でその解決のために考え、奔走する高崎さん、それもこれも今は懐かしく思い出されます。

NTTの後、三菱電機に移籍し、宇宙通信事業部の責任者として進藤貞和会長へのアドバイスや、FSX(次期支援戦闘機)などで三菱グループのワシントンにおける対米ロビーイングに関わるなど、戦略家高崎望は縦横な働きをしました。

その後三菱総研顧問を経て、いくつかの大学で教鞭をとっていましたが、最後の大学は、神田外語大学でした。同大学の異文化コミュニケーション所長、古田暁さんの取りはからいで学生に慕われる名教授として、定年までその指導にあたりました。高崎さんの招きでたびたび授業でパブリック・リレーションズを教えたものです。

一昨年の秋に急に体調を崩し、病院で急性白血病と診断された時の高崎さんの精神的ダメージは相当なものでした。周囲の人もみな驚き、高崎さんの病気を知ったハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルさんや中曽根元首相など近しい方々も心配のあまり、無菌状態の高崎さんの病室を訪ねるほどでした。

亡くなる前の4ヶ月間、私は毎週末、駒沢にある病院にお見舞いにいきました。ちょうど早稲田大学で教鞭をとり始めた頃のことで、大学での授業の話をすると、どんなに辛くてもいつも嬉しそうに聞いてくれました。早稲田大学で教えることが決まったときに真っ先に喜んでくれたのも高崎さんでした。

幼少のころから、高知の桂が浜で太平洋の彼方を望んで立つ坂本竜馬の銅像をみて育った高崎さんは、自由奔放で少年のような心を持った人でした。亡くなる前には、高校まで過ごした郷里にたびたび思いを馳せていました。

後にも先にも、高崎さんのようなグローバル・スケールの戦略家に出会ったことはありません。

そんな高崎さんと25年間親しくお付き合いできたことをとてもしあわせに思います。

山桜が満開だった今年の4月、西多摩霊園で高崎さんの納骨式がありました。太陽が桜の花びらにきらきらと光り、眩いばかりの空のもと、親戚の方々と生前親しかった友人たちが集まりました。

納骨式では、プロテスタントの信者であった高崎さんの所属教会(長老派)の牧師さんが故人への永遠の霊魂のためのお祈りを捧げました。そのときに読み上げてくださった一編の詩「千の風になって」をきいたとき、高崎さんとの四半世紀にわたる数々の想いが一気にこみ上げてきました。

最後に、皆さんとシェアするために、その詩をご紹介したいと思います。

千の風になって
a thousand winds
作者不明 日本語詩 新井満
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています
あの 大きな空を 吹きわたっています

高崎さん、天国で安らかにありますように─。

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