交遊録

2005.07.04

創立35周年、私をPRの世界へ導いてくれた二人の先駆者

1970年の今日、7月4日に創業した株式会社井之上パブリックリレーションズは満35才を迎えます。

7月4日は、皆さん御存知のアメリカの独立記念日にあたりますが、その独立宣言を起草したトマス=ジェファソン(Thomas Jefferson 1743-1826)こそ、最初に「パブリック・リレーションズ」 という言葉を彼の選挙キャンペーンのなかで使った人と言われています。アメリカで登場・発展したパブリック・リレーションズの会社を奇しくも同じ日に創業したのは、偶然とはいえ何かの導きがあったのでしょうか。

当初は、大学時代に活動した音楽クラブでのプレーイング・マネジャーとしての経験を生かし、漠然と企画会社をイメージして会社をスタートさせましたが、その後PR業界に身をおくことになりました。振り返ってみれば、2人の人物から影響を受けたことがそのきっかけとなったような気がします。

最初の人は、電通PRセンター(現電通パブリックリレーションズ)を創業(1961-)した永田久光さんです。三鷹の実家のお隣さんで、私にとっては「永田の親爺さん」という存在でした。高校時代には事あるごとに声をかけられ「PR」について話をしてくれたことを思い出しますが、PRが何を意味するのか当時の私には全く解りませんでした。しかし、今にして思うと頭のどこか片隅にPRという言葉が残っていたのかもしれません。

その後、永田の親爺さんと再会したのは、1970年に私が会社を設立した年のことでした。大学卒業後、就職先のヤマハを退社し、会社設立のために渋谷区神宮前のマンションビルにオフィスを構えたとき、偶然にもそこで出会いました。電通PRを退社し独立して、同じビルの2階で「ジャパーク」という会社を経営されており、重厚な社長室に時折訪ねたときに、いつもPRについて熱く語っておられたのを思い出します。大柄でがっちりした風貌と、エネルギィッシュな立ち振る舞いは強烈な印象を周囲に与えていましたが、その後間もなく急逝されました。まだ働き盛りの50代、志半で去っていかれたことを思うと残念でなりません。

2人目は、コスモPRを経営されていた佐藤啓一郎さんです。コスモPR(1960-)は日本のPR会社の草分けともいえる会社で、最初の出会いは、私が25歳ぐらいのときでした。関連会社に、大宅映子さんたちが創設した日本インフォメーション・システム(NIS)というシンクタンク会社があり、国内企業を中心に幅広いPR業務をおこなっておられました。

佐藤さんはもともと日系アメリカ人で英語を自在にあやつり、外国メディアとの交流にも積極的で、よく原宿の自宅でホーム・パーティーを開いていました。仲間と誘い合いよくお邪魔したものです。おおらかで、いつも聞き役に徹するダンディな方でした。

当時、佐藤さんの会社が、米国の「LIFE」誌でユージン・スミスという著名カメラマンを使い日立製作所の紹介のための特集を実現させた話は有名でした。PR会社としてとても輝いていました。「PRでこんなことができるのか」と大変感心したのを覚えています。私がPRの世界に入る決心をしたのは丁度この頃だったと思います。50代で急逝した佐藤さんの遺志は、現在、当時まだ小学生だったお嬢さんの久美さんが立派に引き継いでおられます。

お二人とも若くして急逝されましたが、そのことが日本のPR業界の発展に多少なりともブレーキがかかったといっても過言ではありません。またお二人とも実家がお寺だったようで、パブリック・リレーションズ・ビジネスの精神性との関わりの深さと重要性を考えずにはおられません。

長年、パブリック・リレーションズの世界に身を投じている立場から想うことは、現在露呈している日本の社会、政治、経済におけるさまざまな問題は、パブリック・リレーションズなしにその解決はあり得ないということです。

その後私が、なぜこの業界を自身の職業として選び、邁進してきたかを来週お話したいと思います。

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