生い立ち
2005.06.06
私の歩んできた道 生立ち編6年間で転校6回、異文化にとけこむスキルを培った小学校時代〜全てはパブリック・リレーションズに繋がっていた
1944年(昭和19年)11月20日、旧満州国大連市生まれです。父、井之上理吉(1903年生れ)と母、ツルヱ(1908年生れ)の間に7人兄弟(男4人、女3人)の6番目の子として誕生しました。
1947年(昭和22年)、家族は日本へ引揚げ、ひとまず母の実家のある瀬戸内海に浮かぶ島で、広島県因島の真向かいの弓削島(愛媛県)に身を寄せました。
父は中央官庁の役人で、香川県高松市でGHQのもとで経済復興のための仕事をしていましたが、途中で家族も合流し、市内の香西寺というお寺にしばらくお世話になり寺の境内で遊んだことを覚えています。
その後、市内の鉄砲場というところに新しくできた公務員官舎に移りました。初めての小学校は地元の亀岡小学校で、昭和26年4月に入学しました。しかし父親の転勤で亀岡小は一学期だけで終わり、その夏に家族9人は広島市に移りました。
広島では1年の二学期から比治山小学校に転校。その後も、父の仕事の関係でほぼ毎年転校を繰り返し、小学校の6年間で実に6度の転校を経験しました。
2年生の一学期からは住居移転のため広島市内の白島小学校へ転入。ここは原爆の爆心地に近く、やけどを負った児童などがいたのを思い出します。
2年の夏には九州の福岡市上出来町(現博多区)に移り住み、二学期から4度目の学校、御供所小学校に通い始めました。
その後4年の夏に同市内に引っ越し、二学期から平和台球場や黒田城に近い赤坂小学校に転校しました。
福岡での2年間は、たくさんの友達に囲まれて、とても楽しく過ごしたことを覚えています。福岡は私にとって第二の故郷といえるほど、懐かしい思い出がいっぱい詰まった場所です。この頃、笑い方がうまいということで、NHK福岡児童放送劇団の試験を一度でパスし、いろいろと活動しました。
6度目となる最後の小学校は東京新宿区にある戸山小学校でした。福岡から5年の夏休みに多くの友人に見送られて上京し、卒業するまで過ごしました。
小学1年生の頃は転校先の学校に馴染めず、寂しがり屋で弱虫な少年でした。いつも父親の姿を求めて泣いてばかり。しかし福岡に転校した3年頃から、クラスの級長に選ばれるなど活発に活動する少年に変わっていきました。この頃水泳と駆けっこ、特にマラソンは、どの転校先でも学年で一番だったので、比較的早く新しい環境に順応することができたのだと思います。好奇心の強さに加えて勝気な性格と、得意なスポーツに支えられていたのかも知れません。
振り返ってみると、小学校6年間で6度も転校を繰り返し、小さいうちに人との出会いや別れを体験したせいか、相手の気持ちを人より敏感に感じ取れるようになったように感じます。
また、日本国内ではあったにせよ、方言も習慣も違う異文化のなかで、自分を主張しながら相手を知り、互いの理解を深め、人とうまくやっていくコミュニケーション・スキルを自然に身につけていった気がします。
パブリック・リレーションズにとってコミュニケーション能力はベースとなるもので、小学校時代のこれらの体験は私にとって大変貴重なものだったといえます。
ひょっとしてこのブログを読まれている方の中にも同窓生がいらっしゃるかも知れません。今回は学校名も紹介させていただきました。