生い立ち
2013.05.20
蘇った一枚の写真〜90年前の写真が繋いだ2つの家族
皆さんこんにちは、井之上喬です。
先日、私のブログのinfoに中間敬弌(なかま けいいち)という方からメールが入りました。
「井之上理吉という人はあなたの父上ですか?」に始まったこのメールには、発信人である中間敬弌さんの父、中間敬介さんが遺した1枚の写真のことが語られていました。
写真に一緒に写っている相方に井之上理吉の名前が記されていて、もしかしたらあなたの父ではないかというものでした。
90年の時空を超えて
何回かのやり取りの中で送られてきた写真。そこには紛れもなく私の父の姿がありました。一瞬タイムスリップしたようで、懐かしさがこみあげてきます。裏に書かれている文字はたしかに父の筆跡です。
写真の中には90年前の学生時代の父がいました。袴姿で椅子に座り、右手に帽子と手ぬぐいを握りしめ、膝の上に置き、伏せがちに薄目を開いた無表情な父。その後ろに立つ青年は、袴姿に学生帽の敬弌さんの若き父、敬介さん。
この衝撃的な写真はPDFファイルで送られてきました。写真は当時の東京にあった「亀甲館」という写真館で撮影されたようで、セピア色に変色し90年の時を感じさせるに十分なものでした。
写真には大正12年5月20日の撮影日付が記されており、表紙付きの写真の表紙の裏には父理吉の筆跡があります。生前の父の話と写真に書かれている内容から、21歳の時に父が当時の国家試験「高等文官試験(高文)」に合格し、それを記念してこの写真館で、一つ下の中間さんの父敬介さんと一緒に撮影したことが推察されます。
写真の父の筆跡は「大正十二年五月二十日撮影 高等試験令第七條に依る試験合格記念 二十一才井之上理吉(座セルモノ) 二十才中間敬介君(立テルモノ)」と記され、敬介さんの字で「日本大学入学記念」とあります。
父理吉の筆跡からこの写真が、父の試験合格を記念して郷里の後輩の敬介さんにプレゼントされたことが想像されます。
父は幼少の頃に父親(私の祖父)を亡くし、旧制中学に行かず鹿児島から上京し、働きながら夜学に通い、3人兄弟を抱える郷里の母に仕送りを続けていました。
逆境の中、21歳で試験(現在の司法試験と国家公務員1種試験)に合格するには想像を絶する過酷な体験をしたことが容易に考えられます。また父は生前、高文に合格したときは、「17貫(約64キロ)あった体重が13貫(約49キロ)を切った」と語っていましたが、写真に写っている姿はその言葉どおり、精根尽き果てたようにも見えます。
写真が繋げた2つの家族
これまで父の独身時代の写真は、兵役時代に撮られた写真1枚だけでした。それだけにこの写真は、私や私の家族にとって鹿児島から上京して苦学する学生時代の父の唯一の写真になります。
中間家によって90年を経た今でも大切に保管されている写真。この写真は私や私の家族にとって父への思慕を深める貴重なものとなっただけではなく、37歳で世を去った中間敬介さんのご家族にとっても、数少ない宝物の一つであったのに違いありません。
7歳で父の敬介さんを亡くし、小学校6年生で母を亡くした中間敬弌さん。戦後、17歳で大阪に行き苦学して大学に通い、49歳で関西大学の教授になられたようです。
現在は関西大学名誉教授で、イリノイ大学留学時代の経験を生かし同大学専門職大学院で英文契約の授業を非常勤講師として教えていらっしゃいます。
先日初めて現在宝塚に住む中間さんと電話で話をしました。初めての電話でしたがもう何年も前からの知り合いのような不思議な感覚にとらわれました。
息子の敬弌さんとのメールのやり取りで次々と2つの家族の繋がりが見えてきました。父の理吉と中間敬介さんは鹿児島の日置郡の伊作の出身で同じ小学校(花田小学校)に通っていたようです。同じ日本大学を卒業し、敬介さんは商工省、父は内務省(戦後行政監察庁から弁護士)と別々の道を歩みましたが、二人は強い絆で結ばれていたのではないでしょうか。
あるとき中間さんに、どのようにしてこのブログにたどり着いたのか聞いたことがあります。中間さんはGoogleで「井之上理吉」を検索し、「役人」がキーワードになりこのブログにたどり着いたと言います。
私の知らせで早速、偶然同じ宝塚に住んでいるすぐ上の兄(幸治)と中間さんが現地で会うことになったようです。8月の夏休みには、私は宝塚を訪問し中間さんとお会いする約束をしました。
そういえば、今日は2013年5月20日。あの写真が撮られた日はちょうど90年前の1923年5月20日。父理吉と中間さんの父敬介さんが結び付けてくれたのでしょうか?
90年も前に、西郷隆盛や、大久保利通たちと同じように夢を追いかけて鹿児島から上京した二人の若者。
一枚の写真が私たち2つの家族に与えたものは計り知れません。違った人生を歩んだもう一つの家族。一人のひとの想いが一層私に感動を与えてくれたのでした。
中間さん、これからもよろしくお願いいたします。