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2015.09.03

戦艦ミズーリ艦上での降伏文書調印式〜マッカーサー元帥の5本のペン

皆さんこんにちは井之上 喬です。

東京は涼しい日が続き、秋の気配すら感じられる時節になりました。あの猛暑は何処へ行ってしまったのでしょうか。

8月13日の私のブログでは、8月15日の終戦記念日にあたって、終戦70周年特集を組ませていただきました。

1941年12月8日(ハワイ時間7日)の日本軍による真珠湾攻撃に始まり、45年8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下、そして14日のポツダム宣言受諾を経て戦争は終結しましたが、今回は、続編ともいうべき戦争終結後の降伏文書調印のお話です。

丁度、私が原稿をしたためている70年前の今日(9月2日)、東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われたのでした。
この歴史的な調印式の舞台としてミズーリ号が選ばれたのは、当時の米国大統領トルーマンの出身州であるミズーリに因んでいるようです。同艦は1999年からハワイ州パールハーバーに保存されています。

外交史料館で「降伏文書」原本を公開

日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945年(昭和20)8月28日、米軍進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に到着。その2日後には連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ったのです。

サングラスをかけ、コーンパオプを咥えて専用機のタラップを降りるマッカーサー元帥の写真を記憶されている方も多いことと思います。

そして9月2日には、東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われました。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らで、これを迎えたのがマッカーサー元帥をはじめとする戦勝国からの代表者でした。

降伏文書が調印されたことにより、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了したのでした。

以後、51年(昭和26)9月の対日講和条約(サンフランシスコ講和条約、対日平和条約ともいわれる)調印まで、日本は連合国の占領下に置かれることになりました。

外務省は8月31日、米戦艦ミズーリ上で調印した「降伏文書」の原本(写真:共同通信)を東京・麻布台の外交史料館で9月12日まで公開しています。複製は常設展示しているが原本の一般公開は約20年ぶりとのこと。この機会に閲覧してみてはいかがでしょうか。

 

調印式にまつわるエピソード

まず、ミズーリ号が停泊していた場所は、遡ること90年前にペリーが黒船ポータハン号を停泊させた位置とほぼ同じでした。米国は日本を開国に導いただけでなく、戦争にも勝利したということを90年越しに強調したかったのではないかといわれています。

ミズーリ艦甲板にはためいていた二つの星条旗。一つは、往年のペリー提督が用いた旗で、もう一つは真珠湾攻撃の際にホワイトハウスにあったものだそうです。

マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文書に調印。彼の部下や陸軍士官学校、海軍兵学校に1本ずつ贈り、最後の1本は彼の妻のジェーンに残したという有名な話があるとのこと。

日本側の代表者重光葵大臣は、降伏文書にアメリカのペンは使いたくないというこだわりがあって秘書官のペンを借用したとも伝えられています。

70年前の9月2日、米戦艦ミズーリ号に乗り組んでいたアート・アルバートさん(現在88歳)は「署名が行われた机は一般兵の食堂で使われていた2メートル40の長テーブルだった」ことを明かしています(読売新聞:9/2朝刊)。

また、「自由と寛容と正義の完成を目指す世界が生まれてくることを望む」といったマッカーサー元帥の声を聴いたといいます。

日米関係だけでなく近隣国との経済的相互依存が深化する一方、さまざまな政治課題や主権を巡る摩擦や対立が増すなかで、甚大な被害や犠牲者を生んだ大戦直後のマッカーサー元帥のメッセージに真摯に耳を傾けるべき時ではないでしょうか。

フラグメンテーション化する時代にあって、平和な世界を希求し持続させるうえで、パブリック・リレーションズ(PR)の専門家の果たす責務はますます大きくなるのではないかと感じています。

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著者:井之上 喬
井之上パブリックリレーションズ社長/京都大学大学院特命教授

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