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2013.08.15

『ある終戦工作』から〜20世紀最大のスクープ「ポツダム宣言受諾」

こんにちは、井之上 喬です。猛暑の続く中、皆さんいかがお過ごしですか?

今日は68回目の終戦記念日。私は、今年も亡き母のふるさと愛媛県の弓削島で終戦記念日迎えています。

今回のブログは、『ある終戦工作』(中央公論社、1980年)を題材にしています。著者の森元治郎さん(1907-1999年)は、昭和6年から終戦にいたる激動の時代を通信記者(新聞連合社、同盟通信社、共同通信社)として大陸の熱河省、河北省への侵攻作戦に従軍、欧州ではワルシャワ支局長としてナチス・ドイツのポーランド侵攻などを中心に取材しています。

昭和15年の帰国後は、外務省嘱託としても開戦にいたる日米交渉から終戦の舞台裏に立会っています。戦後、片山首相の秘書官を経て、故郷の水戸を地盤に参議院議員(社会党)を3期務め、日本国連協会理事や日本ポーランド協会会長などを歴任することになります。

「国家最大の機密」の扱いに迷い悩む

森さんは、自著『ある終戦工作』の中でスクープ当日の行動をこう記しています。「私は九日夜から外相(東郷茂徳:筆者注)が帰省されるのを待ちつつ、とうとう外務省で徹夜してしまった。大臣は十日の四時ごろ本省に戻られたらしいが、私は気付かなかった。昼近くになって、松本次官から『やったよ』と告げられた。」。日本政府がポツダム宣言を受諾したのです。

「政府から元首相らの重臣に説明が行われたのが午後三時というから、私がこの重大事件をキャッチしたのは、三時間以上も早いことになる。おそらく部外者でこの時間にこれを確実に知ったのは、日本中探しても俺が一番先じゃないかと、記者根性が頭をもたげた。」

「つかんだ情報は、温めることなく公けにするのが記者本来の任である。」しかし、記者である半面、「外務省嘱託」という身分もあり、この「国家最大の機密」をニュースとしていかに扱うか迷い悩んだ様子が描かれています。

また、本土で決戦と狂気の如くはやる陸軍や海軍の第一線将兵が、なんの前触れもなく突然にこうした情報に接したならば暴発して大混乱に陥るのではないかという懸念もあったようです。

彼は日比谷公園をぶらつきながら本社へ向かう道々、「これを速かに内外に知らせ、既定事実をつくることによって終戦を決定づけることが、かえってお国のためだ」と思い直し、長谷川局長をつかまえ、「ポツダム宣言は受諾に決ったから、これをすぐ海外放送に入れてくれ。お国のためだ]と催促したといいます。最終的には、森さんの記者としての本能が勝ったということでしょうか。

長谷川局長は「よし、やろう」と快諾。安保長春英文部長をよびつけ、すぐタイプに向って“Japan accepts Potsdam Proclamation.”(日本はポツダム宣言を受諾せり)と打った(モールス信号)ものの、長谷川局長にも迷いが生じてすぐには打電できずにいたようです。

結局、20世紀最大のスクープといわれる日本の「ポツダム宣言を受諾」のニュースが世界中を駆け巡ったのは同日午後8時過ぎ(日本時間)になったようです。

『ある終戦工作』の事実関係を客観的に裏づける記事が、地球の裏側のブラジルで発行されている「ニッケイ新聞」に掲載されています。同紙はブラジル・サンパウロ市で発行されている移住者や日系人・駐在員向けの日本語新聞(週5回で発行部数約1万部)。

興味深いことに、この20世紀最大のスクープといわれる「ポツダム宣言の受諾」について、同紙の2008年8月12日付コラム「樹海」では以下のように報じられています。

広島と長崎の「原爆の日」も終わり8月15日が近づく。あの暑い日の正午。昭和天皇の玉音放送があり国民たちは涕泣した。米英中ソのポツダム宣言を受諾すると決めたのは8月9日に皇居で開かれた御前会議であり、10日の午前にはスイスの日本大使館に公電を発し米英への通告を指示し、玉音放送の原盤を運ぶ迫水久常書記官長の秘話もある
秘話はまだある。同盟通信(戦後に共同通信と時事通信になる)の外務省担当記者・森元次郎氏が「ポツダム宣言を受諾」の大スクープをやったのである。10日の午前中に外務省の英米課にいくと、課員が1通の書類を取り出し表紙を上にして机に置く。英文だが、そこには御前会議でポツダム宣言を受諾―とある。2人は言葉を発しない。目で語り合い、全てを了解する
帰社した森は上司の長谷川才次海外局長(後に時事通信社長)に報告する。当時は陸軍の検閲があり、報道も自由ではない。このような国家の最高機密を通信社や新聞が掴んだとなれば、当然、大騒動になる。長谷川局長は「本当か」と言い、どのように発表しようかと頭を痛める
そして、海外放送を使い英文で放送することに決める。この原稿が同10日の午後8時10分すぎから「日本はポツダム宣言を受諾せり」と世界に流れた。トルーマン大統領も「傍受機関から報告があった」と記しているし、ロンドンもパリの市民も大喜びし街路で踊り狂った。まさに歴史的なスクープであり、マスコミでは今に語り継ぐ。敗戦の責任を取り介錯無用と割腹した強硬派の阿南惟幾陸相の自裁もあるし、終戦の頃の哀話は多い。(遯)

日本政府からのポツダム宣言正式受諾は、電報でスイスとスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告されたのですが、トルーマン大統領が同盟通信からの情報に最初に接したというのも驚きですね。
この記事を読んで、当時の厳しい検閲体制の中で英語ニュースとしてスクープした森さんの知恵と勇気に驚嘆させられます。

時代を超えた人間のネットワーク

森さんが外務省詰め(霞クラブ)になった昭和8年当時には、外国特派員たちが外務省を舞台に盛んな取材活動をしていたようです。

ソビエトのスパイ容疑で処刑されたリヒヤルト・ゾルゲも常連の一人で、いつもよれよれの洋服を着ていたが、眼の鋭い精悍な感じのする男だったとその印象を語っています。

大物はなんといっても、ニューヨークータイムズ兼ロンドンタイムズ特派員のヒュー・バイアス。記者会見にはほとんど出ないで、彼はひとりで外務省にやって来ては、まっすぐ重光葵外務次官を訪ね、個別取材していたようです。

他には、記者会見ではいつも一番前を定席にしていたソビエト国営タス通信社のナギ。そしていつも陽気なUP通信社のマイルス・ボーン(「ボーン上田記念国際記者賞」は彼の生前の業績を称え設けられたもの)が紹介されています。

また第二次大戦中、M・ボーンがニューヨーク支局にいたときの部下が、戦後GHQの民間情報教育局(CIE)情報部長に就いたドン・ブラウンで、パブリック・リレーションズ(PR)を日本に導入した関係者の一人。1949 年に民間情報教育局主催の「広報講習会」で講義を行っています。

私の著書『パブリックリレーションズ』(日本評論社、2006年)で「全国の行政機関でPR部門設置が整いつつあった1949年、GHQ民間情報教育局は中央官庁の職員に対しPR講習会を開催した。」と記していますが、その講師の一人がM・ボーンの部下のドン・ブラウンだったようです。

森さんの著書の中には、私たちが歴史で学んだ政治家や官僚が多く登場します。また、私たちの先駆者で名前しか知らないマスメディア関係者やジャーナリストが生き生きとした存在として登場します。

時代を超えた人間のネットワークが、パブリック・リレーションズ(PR)の歴史に関わっていることを読後感として強く心に残りました。

戦後68年も経って戦争体験が風化していくことは否めない事実です。終戦記念日の今日、悲惨な戦争体験や終戦の秘話を掘り起し、「戦争を知らない世代」に平和であることの尊さを知ってもらうことも私たちパブリック・リレーションズ(PR)専門家の役割だとその思いを強く持ったのでした。

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