2009年10月26日
病める地球の健全化に向けて
~「DEVNET賞」贈賞式より
こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。
私が常務理事を務める国連開発計画NPO法人日本DEVNET協会(JDA:以下DEVNET)は、1986年にガリ元国連事務総長らにより設立された国連開発計画DEVNET ASSOCIATION(本部:ローマ)の一員。同協会の事業活動のひとつとして2005年度より「DEVNET賞」を設け、発展途上国の産業・技術支援、社会・文化支援、人材開発、情報交流、女性の社会的活動・起業支援などの分野で継続的な活動の成果を挙げた個人、団体、組織を表彰しています。先日、その贈賞式が有楽町の日本外国人特派員協会記者クラブで開催されました。
■情報化社会における新たな社会貢献モデル
DEVNETとは、Development-Networkを縮めた言葉。そこには情報交流ネットワークを活用し世界が抱える問題解決に貢献しようとの思いが秘められています。いわば情報化社会における新たな社会貢献モデルともいえます。現在の参加国は100カ国を超え、約50万社に技術情報が提供されています。日本では今年3月まで会長を務められた片方善治さんにより2004年から活動が始まっています。
DEVNET賞は、これまで技術、産業分野での活動に対する「TIPS(Technological Information Promotion System)賞」と女性の社会的活動に対する「WINNER (Women into the New Network for Entrepreneurial Reinforcement)賞」の二つのカテゴリーがありました。2009年度からはこれら二つの賞が片方前会長の「病める地球の健全化に向けて」の目標のもとに「DEVNET賞」として統合されています。
2004年の第1回DEVNET賞「多年にわたり途上国留学生支援活動の継続」(長谷部グループ会長長谷部平吉)を皮切りに、2007年には「途上国の地雷除去活動で献身的な活躍」(山梨日立建機社長雨宮清)と「学校建設など途上国の子どもたちへの支援活動の継続」(国際平和基金財団理事川本貴美江)が選ばれました。
2008年は「太陽光発電装置の技術及びシステムを開発途上国に提供するとともに生活向上のための技術指導に寄与した功績」(京セラ株式会社佐倉ソーラーセンター)と「開発途上国に対して国際的レベルの医療看護の技術転移を行い、また支援・指導の奉仕、及び災害発生時における献身的救護活動の功績」(医療法人徳州会理事長徳田虎男、インドネシア・バリ島タバナン県立病院女医スリ・カルヤワチ)に贈賞されています。
■リコーの地球市民としての取り組み
2009年度DEVNET賞は、「生物多様性を保全するための生態系保全」を目的に、ガーナ、フィリピン、マレーシアなど各地の熱帯性雨林回復に寄与した功績に対して株式会社リコーおよび関連会社で構成されるリコーグループに贈賞されました。この贈賞は、DEVNET賞選考委員会(委員長:濱田泰三早稲田大学名誉教授)が 1)活動の意義とその成果、2)継続性と波及効果、3)応募者(社)の姿勢などについて厳正な審査を行い、決定されたものです。
リコーグループは、1992年に環境綱領を制定し環境保全活動と経営活動を同軸であると捉え、地球市民の使命として自らの責任で地球環境保全に取り組んできました。リコーの社会貢献活動は1976年の環境推進室設置にさかのぼりますが、今回の贈賞となった生物多様性保全プロジェクトは1999年に始まります。当時、オフィス機器事業で紙を扱う企業として限りある森林資源の保全に取り組むべきであるとして環境NGOや問題を抱える地域住民との連携により「森林生態系保全プロジェクト」が開始されたのです。
「熱帯雨林回復」プロジェクトには、いくつかの共通点が認められます。一つは持続的森林農法を普及するための地域住民に対する意識啓発や教育。二つ目は、単に地域の発展モデルを提案するだけでなく、現地政府、行政機関や地域住民と共同でプロジェクトを推進し、技術移転や人材育成を行って持続可能な事業として定着させていることです。興味深いことに、このプロジェクトの責任者(社会環境本部長)は、機械出身で同社の理事・技師長の谷達雄さんです。途上国プロジェクトの奥深さが伝わってきます。
ここにはパブリック・リレーションズ(PR)の手法であるコミュニティ・リレーションズやガバメント・リレーションズが応用されています。
このような賞を通して、発展途上国でパブリック・リレーションズが実践され、その認知やニーズが現地社会で拡がっていくのは私たちパブリック・リレーションズ関係者にとって大変嬉しいことです。
2009年06月08日
水素研究会スタート
~100%CO2のないグリーン水素とは
いま地球温暖化の元凶として、化石燃料による二酸化炭素(CO2)問題が世界の共通課題として急速にクローズアップしています。とりわけ地球温暖化問題がテーマとなった「北海道洞爺湖G8サミット」以降、脱石油を合言葉に、化石燃料からの脱却に拍車がかかり、太陽光、風力、バイオマス等の自然エネルギー及び原子力などの代替エネルギーの開発競争が世界の先進国の間で行われています。
このブログでも以前紹介したことがあるクリーンな代替エネルギー開発の中で、究極のエネルギー源として注目を浴びる水素エネルギーの研究会が先日スタートしました。水素研究会の参加者は、水素開発の専門家と関心の高いジャーナリスト、企業で水素とのかかわりを持つひとなどで構成されています。
■意外に身近な水素
水素を作り出すには、水を電気分解する方法が一般的によく知られていますが、この方法は分解するのに必要な電気を何によって作り出すかで、CO2排出量が異なります。電気から水素を作っても、化石燃料から電気を作る時に既にCO2を排出することになり、加えて日本では電気は高く、工業的にはメタンから水素を作っています。しかし、このメタンから作る方法だと安価に水素を作れますが、CO2を出してしまいます。そこで、注目されているのが原子力の一つである高温ガス炉を使った水素生産。
研究会に先立つ今年の2月、日頃懇意にしているジャーナリスト、企業で環境関係の研究者などと茨城県大洗の日本原子力研究開発機構にある「高温ガス炉」を見学しました。これまで原子力と名のつくものには本能的に拒絶反応を示していた私が、そこで見たものは、原子力に対する恐れを根底から覆してくれました。
現在、燃料電池に使われる水素は、上述のように、水蒸気改質法と呼ばれる方法で天然ガス(メタン)から作っていますが、メタンを使えば、石炭・石油よりも少ないとはいえ、前述のようなCO2を排出していることには変わりはありません。ですから究極は、水素を生成する段階でCO2を排出しない水素生産が重要となります。このようにして作られた水素をグリーン水素といいます。
先日の研究会で、これまでの「水素の登場はまだ先」とする概念を一掃するような話を伺いました。それは水素事業に50年以上かかわっている企業の方の話でした。「家庭での水素利用には現在使われている都市ガスシステムをそのまま転用できうる」というものです。現在ガス会社が力を入れているのは、家庭用燃料電池を普及させることで、燃料電池に必要な水素は都市ガス(天然ガス)を使った水素抽出法。
興味深いのは、既存の都市ガスに40-50%でも水素を加えることで、CO2もさらに少なくなり巨大な水素需要が起きるのではないかということです。高温ガス炉で水素製造するには、社会での大量な水素需要が前提条件となるからです。
現在使われている水素は主として、石油精製の過程や製鉄所でのコークスなどから取れる副生水素と前述の天然ガスから作る水素です。水素自体は燃料電池で酸素と結合し、「水」になるだけで、CO2はゼロですが、石油、コークス(石炭)、天然ガスには炭素「C」が含まれていることから、これら化石燃料から水素を作った場合は、グリーン水素とはいえません。
したがってCO2を全く出さない高温ガス炉や自然エネルギーから水素を作れば、水素を作るための天然ガスや石油も必要なくなる。というわけで、CO2削減には一石二鳥の話。エネルギー密度の小さい自然エネルギーとエネルギー密度の大きい原子力による高温ガス炉が役割分担し、水素社会の実現に向けての開発が行われています。
■世界最先端を行く高温ガス炉
現在、日本や世界で稼働している原子力発電は、ほとんど軽水炉型、つまりスリーマイル島で使用されていたものと同じもので、300度程度の熱で水を水蒸気にしてタービンを回し電気を作る発電システム。これに対し、高温ガス炉はヘリウムガスを用いて、1000度に近い高温の熱を取り出すものです。
冷却水がなくなる事故が起きた際に、前者は原子炉に水を注入冷却し、治めるのに対し、高温ガス炉は炉の運転をそのままにしておいても、自然に安定・安全な状態に落ち着くシステム。また大型で多くの水を必要とする軽水炉が川や海に隣接したところで建設されるのに対して、小型で山奥でも建設できる高温ガス炉は利便性も高いように見受けられます。
日本の高温ガス炉は、研究炉で5年前に世界に先駆けて摂氏950度を達成しています。世界では以前ドイツが700度を達成していましたが、原発停止により研究を中止。その技術が、南アフリカや中国に移転され、研究・実験レベルでは現在日本を除くと中国が実現温度700度で行っているだけです。
米国は、スルーマイル事故以来開発はストップした状態ですが、ブッシュ政権の終わりからオバマ政権に移行した現在、高温ガス炉で発電と熱エネルギー利用、特に水素製造用の二つの用途を追求する方針を打ち出し、開発を進めるべく法律で定めています。日本と同じ950度を2013年に原型炉を建設しようと計画していますが、この分野での日本の技術は世界一秀逸でその差は歴然。
なかでも、セラミックでウラン燃料を覆った直径一ミリにも満たない被覆燃料粒子球状粒子は芸術品としか表現できないほどのものです。
私が、水素エネルギーに魅せられたのは、2007年秋に地球温暖化に警鐘を鳴らしていた山本良一東大教授とお会いしてからです。翌年箱根での山本さん主宰の研究会に出席し、化石燃料に代わるクリーンエネルギーの開発に国家が真剣に取り組む必要性を感じるに至りました。
20世紀は石油資源をめぐる争いの世紀であったといわれていますが、水素はまさに理想的なエネルギー。日本は歴史上はじめて、水素エネルギー生産国となり、それらの技術を輸出する国になることが可能となるはずです。そのためには国家の意思が働かなくてはなりません。この分野では後発となる米国や他の国々に追いつかれ追い越されることのないように、国による戦略的な意思決定が求められています。
このような新しい流れを創り出さなければならないとき、パブリック・リレーションズ(PR)が有効に働くことは言うまでもありません。
2008年05月24日
異常な国日本
~自殺者ゼロを目指して
こんにちわ井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?
このところ、ニュースでまた「自殺」に関する報道が増えています。
その特徴も、最近の硫化水素自殺のようにまわりを巻き込むケースもみられ心が痛みます。
日本の自殺者の数は、1998年に3万2863人とはじめて3万人を超えました。以来3万人台で推移し、2006年は、3万2155人(警察庁:2007年6月発表)、2007年も3万人台を超えているとみられ、10年連続の大台記録樹立の汚名をかぶせられそうです。今日は皆さんと自殺について考えたいと思います。
■ 毎年人口3万人の都市が消滅
日本で発生する自殺の原因としては、健康問題、家庭問題、勤務問題、経済・生活問題などが挙げられますが、経済格差が広がりをみせる中で、このところ経済・生活問題による自殺者が急増しています。日本の自殺者の数(2004年WHO:人口10万人で24.0人)は国際的にみると、G8参加国の中で、ロシアについで2番目。米国の約2倍。イギリスの4倍となっています。
ここで3万人という数がどの位のものなの考えてみると:
1) 15年続いたベトナム戦争の米軍の総戦死者数、約5万8千人の半分を
上回る数
2) 昨年、54年ぶりに5000人台となった日本の年間交通事故死者の5倍を
超える数
3) そして人口3万人の地方都市がそっくり消滅する数
などいずれも、尋常ではない数字ということになります。
また年間1万人を越える米国の銃犯罪による死者の数は日本人にとって驚くべき数字ですが、3万人という数は実にその3倍ということになります(ちなみに自殺未遂者はその10倍といわれている)。
日本では自殺が文化の一部になっているようです。古来、武士道精神にみるように責任を取るために「腹を切ってお詫び」自決したり、年老いると「姥捨て山」を受け入れるなどの精神構造がいまだ残っているように思います。一部のメディアが、「自殺天国」という表現でこの社会的問題を捉えるのも根は同じということでしょうか。
■ 今こそ自殺防止国家キャンペーンを
小泉政権による構造改革では、自己責任の名の下で痛みを伴う思い切った政策が実行されました。しかしながらグローバル化の流れの中、「自己責任」という名のもとで、十分なセーフティ・ネットへの対応(十分なコミュニケーション)の怠りについても強い反省が起こっています。しかし自殺問題が社会的な大きな問題となっているにもかかわらず、この問題について国民的論議がなされていないことは信じがたいことです。自殺の直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどさまざまですが、この問題の解決に向けて真剣に取り組む姿勢は見られません。多くの日本人はこの話題を避けているのでしょうか。やむを得ず口にする場合は、異口同音に、グローバル化のひずみや経済の失速、失業者の増加などにその原因があると分析する程度。
日本は今こそ国を挙げて自殺防止キャンペーンを展開しなければなりません。自殺による人材損失がどの程度のものかデーターはありませんが、少子化で日本の人口が漸減していく中で、自殺者を減らすことは国益にもかなうはずです。かってはハンガリーと並んで自殺大国(2004年WHO調べ:90年に人口10万人あたり30.3)であったフィンランドなどの諸外国では、様々な自殺対策がとられています。残された遺族のケアや、増加する児童や生徒の心の問題に目を向けていくことなど、自治体も含めて社会全体で自殺予防に取り組んだ結果、約10年間で自殺者を30%も減らしたとしています。
WHO(世界保健機構)によると、自殺は「追い詰められた末の死」であり、「避けることのできる死(avoidable death)」としています。このことは、数年来、北九州市で生活保護受給に関連して起きた複数の餓死事件をみても理解できます。突き詰めると、受給者を増やしたくない役所の窓口の非人間的な対応に起因していたといえます。
また自殺する人の動機はいろいろあるようですが、生きる支えは、どんなにつらくても希望があることです。希望がなくなった時から人間は自らの存在の否定を始めるからです。
先日、あるテレビ番組で自殺者の心理について語られているのを観ました。理由はどうあれ、キーはコミュニケーションにあるようです。番組の中である自殺志望者は、「親にも見捨てられ(そう感じている)相談する人が誰もいなくなった結果自らの死を選ぶ」とコメントしていました。
人間の命は、天からの大切な授かりもののはずです。また人間はひとりで生きていくことはできません。誰でも「関わり」を持っています。自殺をする人が、他との関わりがなくなったと思い、失望して自らの命を絶つのだとしたら、社会で救いの手を差し伸べることができるはずです。パブリック・リレーションズ(PR)を適用する意味がここにあります。
2008年03月21日
家族力大賞~新しい絆を探そう

こんにちは、井之上喬です。皆さん、いかがお過ごしですか。
先日、さまざまな感動的な生きざまに触れることができました。テーマは「家族力」。社会が複雑化するなか、関わりをもって生きていくことが希薄になってきています。「家庭が壊れている」といわれてから久しい今日。その核となる家族に光を当てようと、東京都社会福祉協議会が今年度から家族力大賞(エッセイ・コンテスト)を始めたのです。
■ 「コロンボ寄金」を囲む家族
いま日本の国力が落ちています。それを支えるベースは家族。その家族の崩壊を憂えた方から昨春連絡をいただきました。その方は、同協議会会長の大竹美喜(アメリカンファミリー生命保険最高顧問)さん。大竹さんは、「家族にはいろいろな形がある。あたらしく家族力大賞を設け、人間の絆に支えられた家族の大切さをひとりでも多くの人に認識してもらいたい」と熱く語られました。
昔と異なり、家族の意味合いも随分変化し、さまざまな人間の絆を家族に見ることができます。エッセイ・コンテストには多くの作品が寄せられましたが、審査員の一人として参加した私にとってすべてが新鮮でした。そこには私の普段の生活の中では見ることができない世界があったからです。最後に絞り込まれた13作品はどれも素晴らしいものばかりでした。ワープロで書かれたもの、手書きのもの、応募者それぞれの環境が読者に伝わってきます。
最終選考では審査員の意見も割れるほど。読み終えて、一人ひとりの作者に会いたいと思わせるほどの、澄み切ったなかにも迫力を感じさせる作品ばかり。結局全員一致で、13作品すべてを入賞にすることに決めたのです。
3月18日、京王プラザホテルで開催された授賞式。ほぼ全員が出席するなか、最優秀賞を始め13の作品が表彰されました。授賞式では選考委員会(委員長:金子郁容慶応義塾大学教授)のメンバーの間で誰がどのエッセイを書いたのか、作者と作品を結びつけることに喜々とした視線が注がれました。
最優秀作品(東京都知事賞)は「コロンボ基金」。松田征士さんの作品。ストーリーは松田さんのご家族と中国から語学留学生として日本にきたアイリーン馬さん、そして中国出身で日本人に帰化し、後に馬さんの夫となる医師、謝さんとの交流を描いたものでした。
馬さんとの出会いは10年ほど前。居酒屋でアルバイトをしていた彼女に初めて知り合った松田さん。語学留学を終え、家族のいるオーストラリアに戻った馬さんが難病治療のために来日します。久しぶりの再会でしたが、そこで彼女が重い肺の病気を患っていることを知ります。
日本で医師になった謝さんは、幼友達でもあった彼女の不治の病を知り、馬さんが日本で治療を受けられるために結婚を決意。しかし唯一残された方法は肺の移植手術でした。1億円という気の遠くなる数字に呆然とする二人。そんな中、松田さんは偶然にインターネットで相談した友人から送られてきた寄付金がきっかけで、全国で募金の呼びかけをおこなう決心をします。
創設された基金の名前は「コロンボ基金」。偶然に松田さんが馬さんとの最初の出会いの前夜TVで観た、刑事コロンボのヒスパニック系への思いやりをイメージした名前でした。手術に必要な金額には及ばなかったものの、全国から100名を超える人々からの暖かい寄付金が集まりました。
馬さんは病魔と闘いながらも基金を取り巻く人々の善意と夫の愛に包まれて命を全うします。この作品は彼らの心のひだを繊細な描写で描く、心温まるストーリーです。
東京新聞賞には、大島史美さんの「名プロデューサー」が選出されました。家族の中でいつも孤独だった父。その父を理解できない娘。しかし娘が父親から離れて上京し働き始めることで父を理解していく。 相手を責めるのではなく思いやることの大切さを教えてくれる作品です。
血縁関係をもとにした伝統的な家族と、共に生きようとする意志に支えられる新しい形の家族。人々の生活が多様性を極める今日には、懸命に生きる意志と心遣いがあれば、さまざまな家族形態があっていい。どの入賞作品もそう思えるものでした。
■ 社会の影に光を
とても気になった作品は森田圭さんの「僕の視線」。筋萎縮性の難病、少年時代に筋ジストロジー症にかかった作者。その彼が、悩み、傷つき、その苦しみの中で希望を見出すという心の軌跡を描いた物語です。彼の鋭い感性で描き出された世界は、障害を持った人の視点から見た世界。そこで私は、健常者がいかに鈍感な部分を持ち合わせているのかに気づかされました。
他にも看護師の現状を訴えた作品、郷里の祖母の生き方について語った話。また、壊れた家族が生活を取り戻していく作品などを通して私は日頃接することはできない世界に出会うことができました。 そこで私は生きていく上での葛藤と喜びを新鮮な形で味わい、人生における本当に大切なものとは何かを少し学んだ気がします。
グローバル競争に組み込まれ、社会の影になりながらも必死に生きる人たちはこの世の中に多くいます。 私たちPRパーソンには、パブリック・リレーションズを通して、そのような人々にも光を当て、彼らと社会とを結び付ける役割があるように思います。
社会が本当に必要とするものを提供できる国。私はこれらの作品に触れたとき、日本がそのような国になって欲しいと願わずにはいられませんでした。
*上の写真の作品集『家族力大賞-新しい絆を探そう』には、13編の作品が紹介されています。東京都社会福祉協議会が発行元です。非売品ですが、50冊程度であればプレゼント可能だそうです。興味をお持ちの方は連絡してみてはいかがでしょうか。
Tel:03-5283-6894
Fax:03-5283-6997
e-mail: tomin-kigyou@tcsw.tvac.or.jp
2007年11月03日
社会貢献活動を支える熱い思いと使命感
~DEVNET賞贈呈式から
こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。
私が理事を務める国連開発計画NPO法人日本DEVNET協会(JDA:以下DEVNET)は、国際機関DEVNET ASSOCIATION(本部:ローマ)の一員。同協会は2005年度より「DEVNET賞」を設け、各年度に国際活動の場で著しく貢献した個人や組織の功績を称え顕彰しています。先日、その贈呈式と祝賀パーティが開催されました。
■ 情報交流ネットワークで問題解決
同協会は、会長を務められる片方善治さんが2004年より活動を開始。今年7月、内閣府からNPO法人として認可を受け、技術開発交流と女性活動支援を軸に様々な活動を展開しています。
設立の由来は、1986年。ガリ元国連事務総長らがDEVNET ASSOCIATION をローマに設立。DEVNETとは、Development-Networkを縮めた言葉。そこには情報交流ネットワークを活用し世界が抱える問題解決に貢献しようとの思いが秘められています。現在の参加国は100カ国。約50万社の中小企業が参画。
石田晴久(東京大学名誉教授、工学博士)さんが選考委員長を務める「DEVNET賞」には2つのカテゴリーがあります。技術開発とその支援・普及の業績を称えるTIPS(Technological Information Promotion System:情報支援システム)賞と女性の企業活動や社会活動とその支援・普及の業績を顕彰するWINNER(Women into the New Network for Entrepreneurial Reinforcement:女性起業家支援ネットワーク)賞です。
■ 現地への熱い思いと使命感
2007年度TIPS賞は、山梨日立建機の雨宮清さんが受賞。同社の社長でもある雨宮さんは1994年のカンボジア視察中、現地で地雷被害を受けた母子の悲惨な姿に遭遇し、対人地雷除去機の開発を決心。建設機械をベースに安全な地雷除去機の研究に没頭。ロータリーカッタ式の地雷除去機の開発に成功しました。99年カンボジアで試作機の稼動テストを行い、現地地雷処理機関で絶大な評価を受けました。
雨宮さんは平和な豊かな大地を取り戻すことで人々の自立、自活が達成されると考え、同機械を耕作機としても利用できるよう改良。これまで同機械はカンボジアを始め、アフガニスタン、タイ、ベトナムなどで使用され、現在52台の除去機がこれらの地域で稼動中です。
更に現地で教育訓練や農地開発などの活動と連携。地雷原から耕作地への転換を実現しました。現在ニカラグアでは跡地にオレンジやコーヒーが栽培され、カンボジアでは学校が設立され、現地の人々の生活を支えています。
そして今年度のWINNER賞は社団法人産業関係研究所の川本貴美枝さんへ贈られました。川本さんは、国際平和基金団体でアフリカにおける砂漠化防止や食料安定供給のための植林事業、井戸掘削業に従事。また現在、モンゴルでの救援プロジェクトの一環として貧困にあえぐ子供のための「大地の家」建設などを積極的に推進。長期的に現地で孤児の教育活動を行う女性指導者と共に奉仕活動を展開しています。
川本さんの話の中でとても感動的だったことは、何年か前の冬、モンゴルで大寒波のために200万頭に及ぶ家畜が死亡したとき、首都ウランバートルの街のマンホールや警察の留置所にはホームレスの孤児であふれかえっていたそうです。そんな逆境のなかでも子供達の輝く目を見たときに「この子達を何とかしたい。彼らの住む家を作ってあげたい」との思いが彼女の心を揺さぶったといいます。それ以来この「大地の家」の建設活動に奔走しています。
これら2つの活動に共通するのは、現地の人々の視点に立った活動を真摯にそして継続的に行なっているという点です。援助や奉仕活動には様々な難問や困難に立ち向かう粘り強さが要求されます。お二人の受賞のスピーチからは、現地の子供たちや人々を救いたいとの強い思いが使命感となり、多くの難関を乗り越えるエネルギーとなったことを感じとることができました。そして何かを成し遂げた人には、それぞれの動機が志となって困難にも打ち勝つ原動力となっているようです。
大学の授業でも感じることですが、最近NPOやNGOでの国際活動を志望する若者が増えてきたように思います。しかし今回受賞した市民レベルでの支援活動は一般にはあまり知られていません。継続的に成果を収めるには、日本国内や現地だけでなく、世界に活動状況をリアルタイムで発信し、認知度を高めるパブリック・リレーションズの活動が非常に重要となります。
このような賞を通して、貢献度の高い活動に対する認知度が向上し、世界へ貢献したいと考える、高い志と使命感を持つ人々が一人でも多く輩出されることを願っています。
2006年12月23日
私の心に残る本 その3 『マザー・テレサ 日々のことば』
~クリスマスにちなんで
こんにちは、井之上喬です。
明日はクリスマス・イヴ。25日にはクリスマスと今年も恵みの時がやってきます。
皆さん、いかがお過ごしですか。
クリスマスは、およそ2000年前にベツレヘムで生まれたイエス・キリストの誕生を祝う日です。クリスマスのスピリットは「愛」。「愛は、この世で最も偉大な贈り物なのです」と神との深い一致を通して、その愛を実践した一人の女性がいました。
彼女の名は、マザー・テレサ。
今日は、マザー・テレサが折りにふれて語った言葉を、365日にわたって、日々のことばとして一冊の本にまとめた、『マザー・テレサ 日々のことば』(2000年、女子パウロ会刊)をご紹介します。
マザー・テレサ(Mother Teresa、本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ:Agnesë Gonxhe Bojaxhiu)は、1910年8月27日、スコピア(現マケドニア)のアルバニア商人の裕福な家庭に生まれました。両親は熱心なカトリック教徒で、母親は貧しい人を食事に招き入れるほど奉仕の精神に溢れる人でした。
28年、18歳のテレサは、アイルランドのロレッタ修道会に入会しました。その後、カトリックの修道女としてインド・ダージリンへ派遣されました。そして31年、初誓願を立て、その修道名をシスター・テレサとしました。
■ たった10数円を手に一人で貧民街へ
46年、36歳の夏、シスター・テレサは黙想のためダージリンへ向かう汽車の中で神の声を聞きます。テレサは48年、「神の召命」となる貧困救済活動を行うためインド、カルカッタのスラム街に「青空教室」を開設。粗末なサリーをまとったテレサがひとり貧民街に立った時、その所持金は僅か5ルピー(現在1ルピーは約2.5円)だったといいます。
50年、テレサは「主よ、どうか私をあなたの平和の道具としてください」を信条に、 12人のシスターと共に“貧しい中の最も貧しい人に仕える修道会”「神の愛の宣教者会」を設立。総長就任と共に指導的な修道女への敬称であるマザーを用いて「マザー・テレサ」と呼ばれるようになります。
死を迎える最期の一瞬だけでも、人間らしく扱われることの重要性を知っていたマザー・テレサは52年、路上で死に瀕した人を招き入れ、愛のなかで最期を看取るための施設である、「死を待つ人々の家」(Home for Sick and Dying Destitutes)をカルカッタに開設しました。
■ 宗教を超えて人間の尊厳を守る
『マザー・テレサ 日々のことば』のなかの「11月17日」には、愛は、宗教、民族、社会的地位を超えて差し伸べられなければならないという、彼女の人間の命への尊厳と人間に対する敬愛の念を示す、次のことばが記されています。
「『死を待つ人々の家』では、…..誰にも必要とされず、愛されずに亡くなった人は一人もいません。..... 私たちはヒンズー教、イスラム教、仏教、カトリック、プロテスタント、その他どんな宗教でも、それぞれに記された規範に従って彼らが望むものは何でもしたり与えたりしています」
また「2月5日」には、「私たちが排水溝から引き上げた男性は体の半分を虫に食べられている状態でした。カリガートにある『死を待つ人々の家』に連れて来ると彼はこう言いました。『私はこれまで道端で獣のように生きてきました。それなのに今、愛され、手当てを受け、まるで天使のように死んで行きます』」
マザー・テレサの活動は世界でも高く評価され、79年にはノーベル平和賞を受賞しました。審査員の満場一致による受賞であったといわれています。その賞金は全額寄付されました。受賞のスピーチでマザーは、アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」を朗読しました。
その一部分が日々のことばの「2月24日」に記されています。
「主よ、私を平和の道具としてください。憎しみのあるところに、愛を、不当な扱いのあるところに、ゆるしを、分裂のあるところに和解を、誤りのあるところに真実を、疑いのあるところに信頼を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところに喜びをもたらしますように」
受賞後も彼女は、愛の担い手として以前と変わりなく朝4時に起床しシスター達と一緒に、最貧の人々を救済する活動に専念したといいます。
97年9月5日、マザー・テレサは「もう息ができない」の言葉を最後に帰天しました。87歳でした。その8日後、インドで国葬が行われました。国家の要職についたわけでもない人のために国葬が行われるのは異例のことでした。如何にインドの人々が彼女を深く敬愛していたかを物語っています。
彼女の死から約6年後の2003年10月、マザー・テレサは教皇ヨハネ・パウロ2世によって異例のスピードで列福されました。
マザー・テレサが一人で始めた活動は、現在では世界120カ国へと広がり、6000人ものシスターやブラザーによって支えられています。そして、彼女が毎日座っていたカリガートのある祈りの部屋には、彼女の棺とともにあの小さく華奢な身体をした、座って祈りを捧げる模像が置かれています。私のマザー・テレサとの出会いは、何年か前にカルカッタの本部を訪問した際のことでした。精緻にできたその模像から、彼女の息づかいが聞こえてくるようでした。
『マザー・テレサ 日々のことば』は彼女の深い愛に満ちたことばを通して、喜び、平和、愛、希望という私たちの中にある大切なものをもう一度気づかせてくれる、そんな本です。一度手にとってみてはいかがでしょうか。その日の日付のページを読むのもいいですし、ふと気になったページを開いてみても、きっと皆さんの求める言葉に出会えると思います。
この本が、皆さんに素晴らしい一日をもたらしますように。
最後にクリスマスの日に選ばれたマザー・テレサのことばを紹介します。
「12月25日」
クリスマスの日、
私たちは、
か弱く、貧しく、
幼い乳飲み子としてのイエス様を見ます。
彼は、愛し、愛されるために来られました。
私たちは今日の世界で、どのようにして
イエス様を愛することができるのでしょうか?
私の夫に、私の妻に、
私の子供たちに、
私の兄弟や姉妹に、
私の周りの人たちに、
そして貧しい人たちの中におられるイエス様を、
愛することによってできているのです。
さあ、ベツレヘムの
貧しい飼い葉おけの周りに集いましょう。
そして、私たちが日々出会う
全ての人の中におられるイエス様を
愛することを固く決心しましょう。
メリー・クリスマス!
2006年08月18日
瀬戸内海のまんなかに浮かぶ癒しの空間 弓削島
瀬戸内海のほぼ中央に浮かぶ弓削島。弓削島は幼少時代に毎夏滞在し、心と体の基礎を築いてくれた私のふるさとです。今年もお盆休みを利用して、母が生れ育ったこの島に住む95才と91才の叔父・叔母に会うために訪れました。島から見る瀬戸内海は、夏霞に太陽をいっぱい浴びて幻想的に輝いていました。この癒し空間で4日間、つかの間の休暇を楽しみました。
■松原海岸が日本の海水浴場の100選に
環境庁が今年初めて選定した日本の快適な「快水浴場百選」に、弓削島の松原海岸が愛媛県で唯一選ばれました。美しさはもちろんのこと安全性や環境への配慮が高く評価されての受賞。またNHKがその100箇所をくまなく歩き、最終的に3箇所の特色のある海水浴場を選びました。なんと松原海岸はその一つに入っているのです。
そして先日NHKで、弓削島の地元ボランティアにより行われている環境保全プロジェクトが紹介されました。「NPOゆげ夢ランドの会(代表:村瀬忍さん)」が3年ほど前から行っているEM菌(有用微生物群)を使った水質浄化プロジェクトです。島内の8箇所の砂浜にEM菌を使った土団子(テニスボール大)を投げ入れるもので、そのおかげもあってか島の水には透明感が戻ってきました。嬉しいことに、海岸にはいつもよりタコが採れるようになったり、10数年ぶりにカニが戻ってきたようです。
瀬戸内海は、年間平均気温が15度から16度と温暖でマイルドな気候に恵まれています。
海の波もおだやかで海水浴に最適の海岸が他にもたくさんあります。そして瀬戸内の島々の美しさは「魂にふれる」という言葉がぴったりくる、人の心を癒す神秘的なところにあります。
■瀬戸内の歴史と文化が身近に
この豊かな自然のほかに、弓削島の周辺にはさまざまな史跡や瀬戸内文化を醸成したゆかりの場所があります。北の対岸に浮かぶ因島(広島県)は、室町時代から戦国時代に隆盛を誇った村上水軍の本拠地があった島で、1983年には因島水軍城が再建されました。そこには資料館が併設され、彼らの活躍の歴史を学ぶことができます。
その西隣の生口(いくち)島(広島県瀬戸田町)には、高来寺や地元瀬戸田出身の画家である平山郁夫の美術館があります。その洗練されたデザインの美術館では、「私の原点は瀬戸内の風土である」と語っている画伯の繊細で感性あふれる絵を存分に楽しむことができます。
さらに生口島の西隣にある大三島(愛媛県)には、推古天皇により摂津(現在の大阪府)から同地に移された(594年)大山祗(おおやまづみ)神社があります。「山の神」「海の神」「戦いの神」として朝廷や武将から崇められていたこの神社には、平安初期の日本最古の鎧や源頼朝、源義経(鎧もある)が使っていた名刀を初め日本の国宝・重要文化財の約6割を占める刀剣類や鎧が納められています。ちなみに、ここでご紹介した島々は弓削島を除いて、尾道市と今治市を10の橋で結ぶ自動車道「しまなみ海道」沿いにあります。
瀬戸内文化が生んだ多彩な歴史と美しい自然をもつ島々。しかし、これらの島にも過疎化や高齢化など、日本の地方が直面する問題を抱えています。私は、地元の歴史・文化に根ざした街づくりと、インターネットのインフラ整備によるIT企業、とりわけソフト企業の誘致に同時並行で取り組めば、瀬戸内の豊かな自然を維持しながらの経済的な繁栄の実現も可能であると、つい考えてしまいます。
ひょっとしたら、日本を代表する一大癒し空間になるのではないかと思ってしまうほど瀬戸内の島々には不思議な魅力があるのです。
今年も叔父・叔母そして従姉弟や、彼らの子供たちと共に釣りや会話を楽しみ、幼少のころと変わらない海草の香りのする潮風をたくさん受けて、心と体を癒しました。
東京に帰る日、叔父と叔母には来年また戻ってくることを約束しました。目に泪を浮かべ、船上の私の姿が見えなくなるまで、桟橋から両手を力いっぱい振って見送ってくれた叔母の姿が私の目に焼きついています。
2006年07月14日
心に残った本。
~司馬遼太郎『対訳 21世紀に生きる君たちへ』
こんにちは、井之上喬です。
7月も中旬を迎え、梅雨明けが待ち遠しい季節となりました。
皆さん、いかがお過ごしですか。
先日ある書店に立ち寄った際、一冊の本に目が留まりました。司馬遼太郎が亡くなる数年前に著した『対訳 21世紀に生きる君たちへ』(1999年、朝日出版社)です。
発刊以来読書するチャンスを失っていた私が偶然にも書店でこの小さな本を手にしたとき、司馬さんの子供たちへの熱いメッセージと真剣な思いが私の胸に突き刺さりました。
日本を始め、世界の歴史や20世紀の人間の営みを繊細な目で観察してきた司馬さんはこの本の中で、21世紀を担う子供や若者たちに対して、彼らへの希望と期待を平易な言葉で丁寧に語っています。今回は「一編の小説を書くより苦労した」と語られるこの短編を彼の思いと共に、このブログでご紹介したいと思います。
■人間はもっと謙虚で素直になれる
司馬遼太郎は1960年、産経新聞社在職時代に「梟の城」で第42回直木賞受賞、その後 「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞など数々の賞を受賞し、93年には文化勲章も受章している20世紀の日本を代表する作家です。膨大な資料から得られたその独自の歴史観は「司馬史観」と呼ばれ、96年にこの世を去るまで様々な視点で捉えた数多くの作品を残しました。
今回ご紹介する本には、「人間の荘厳さ」に始まり、彼が小学校用教科書のために書き下ろした「21世紀を生きる君たちへ」、そして「洪庵のたいまつ」が英文対訳で収録されています。
「人間の荘厳さ」では、いまの一瞬を経験するとき、過去や現在のたれとも無関係な、まっさらの、自分だけの心の充実だけがあると云い、「21世紀を生きる君たちへ」では、歴史から学んだ人間として21世紀を担う人たちに何を大切に生きてほしいかを語っています。
まず重要となるのは不変の価値に基準を置くこと。これはこの地球を支配する倫理観であるともいえます。司馬氏は、その基準を大切にしながら大きい存在に生かされていることを知り、その存在に対する恐れを抱くことで、人間はもっと謙虚で素直になれると書いています。
またこれらを素地として、自分に厳しく、相手にはやさしく、という自己を確立することで、自己中心的ではなく、いたわりを持って互いに助け合うことのできる頼もしい自己を築いて欲しいと率直に語っています。
一方、「洪庵のたいまつ」では当時鎖国状態の江戸末期に生まれながらオランダ医学を学んだ後、大阪で「適塾」を開き、福沢諭吉や大村益次郎らの多くの弟子を残して明治維新の礎となった蘭医学者、緒方洪庵について語っています。「人のため」に生きた彼の生涯を例にとり、志の大切さやその高い志をシェアすることで、大きなうねりを起こすことができると説いています。
■パブリック・リレーションズに共通する心構え
司馬さんがこの本で主張していることは、人生においてだけでなく、「倫理観」 http://inoueblog.com/archives/2005/05/prtwoway_commun.html 「自己修正」に支えられた質の高いパブリック・リレーションズを実践する上でも欠かせない心構えでもあると思います。
常日頃、私は日本のみならず世界の安定と持続的な繁栄のためには、自立した個を持った次世代のリーダーの育成が急務であると考えています。早稲田大学で教鞭を執ることになったのも、パブリック・リレーションズの普及をとおして、一人でも多くの次世代のリーダーを育成することで、閉塞状態にある日本が少しでもよい方向へ変容することを期待してのことでした。この本はそんな気持ちを抱く私をいとも簡単に魅了したのです。
いま、混迷する日本では普遍的な価値基準ともいえるバックボーンを持ち、高い志を持ってしっかりとした足取りで歩める、個の確立した強いリーダーが求められています。この本が示す精神で、一人ひとりが山積する問題の解決に取り組めば、司馬さんのいう「真夏の太陽のように輝いている」未来が日本社会にも訪れるかもしれません。
この本は米国の著名な日本文学研究者、ドナルド・キーン氏監訳による英文対訳もついていますから、英語の学習にも有効です。機会があれば、一度手にとってみてはいかがでしょうか。
「もし『未来』という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。」-----この一文は、いまでも私の心に強く残っています。
21世紀の到来をまたずこの世を去った司馬さんは、今の世界をどのように見ているでしょうか。
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本書が日経ビジネス(2006年6月19日号)の書評欄で紹介されました!
『パブリック・リレーションズ~最短距離で目標を達成する戦略広報』
(日本評論社、税込2520円)好評発売中!
「人」「モノ」「金」「情報」のすべてを統合する「第5の経営資源」
これまで長年にわたって誤解されてきた「PR」を「パブリック・リレーションズ」として正しく捉えなおすことにより、パブリック・リレーションズの本質とダイナミズムを分かりやすく解説している。広報の実務に携わる人はもちろん、経営者から学生まで幅広い人たちが戦略的広報を理解することのできる待望の入門書。
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2005年12月24日
クリスマス・イヴの夜話『ヨシュア』 ~ 自由と解放をもたらすひと
皆さんこんにちは。
今日はクリスマス・イヴです。今から約2000年前にユダヤのベツレヘムという村の「馬小屋」で生れた、イエス・キリストの誕生日(25日)の前夜をクリスマス・イヴといいます。
今日はクリスマスにちなんで米国で1983年に刊行されベストセラーとなった本『ヨシュア』のご紹介をしたいと思います。作者はカトリック司祭のジョーゼフ・F・ガーゾーンで、発売以来今日に至るまで推定約4000万人以上の人びとに読まれている本です。
『ヨシュア』は、日常の喧騒と葛藤の複雑な社会に生きる私たち読者に対し、精神的な安らぎと共に不思議な時間と空間を与えてくれます。
アメリカの片田舎のオーバーンという古い村にヨシュアとい名の若い男性が何処からともなくやってきます。彼は村のはずれの牧草と動物たちに囲まれた、古い小さな家に住み始めます。職業は木工で、村人や教会から頼まれるとたとえ小さなものでも丁寧にこなし、質素な生活をしています。接する人には誰にでも親切で、困っている人には心から手助けをし、謙遜のうちに人々の日常の些細な問題や相談事に誠実に応えます。
彼と接する人々は、その何かを超越した、寛容で神秘的な人柄に興味を持ちながら次第に引き込まれていきます。信仰について質問があれば、形ではなく如何に自由意志をもって信仰生活を日々の生活の中に活かすことが大切か、神と人間の関係を規則や規律で形づけるべきでないことなどを語りかけます。彼が人々にもたらす数々の奇跡や小さな愛の行為は人々の心をとらえ、村人にとって大切な存在となっていきます。
神を礼拝するところなら、プロテスタント、ユダヤ教、カトリックの教会と分け隔てなく出かけていきます。やがて、2000年も前にイエスがファリサイ派の人々に批判されたときのように、教会の指導者の批判の対象になっていきます。読者はヨシュアがいつもキリストと同じような目線を持っていることを感じます。
この本はとかく気ぜわしい日常生活を送りがちな私たちに、特別な空間を与えてくれます。もし「イエス・キリストのような人が現代を生きていれば、どのような行動をとるのだろうか、またどのように過ごしたのだろうか?」をイメージさせてくれます。それ故、読者はヨシュアに強く惹かれていくのかもしれません。
ストーリー内容はこれ以上ご紹介できませんが、本書は米国のキリスト教をテーマにした読み物ですが、人間の本質を丁寧に描いた傑作といえます。400頁に及ぶ読み応えのある『ヨシュア』は、忙しく毎日を送っている人には、食後のくつろぎのときや就寝前などを利用して少しずつ読むことをお勧めします。不思議な心の安らぎを感じると思います。
訳者の山崎高司さんは、原作者のガーゾーン神父との運命的な出会いをとおして、仕事の傍ら時間を見つけては翻訳されたとのこと。大蔵省〈現財務省〉で若かりし頃、英国留学中にスコットランドでプロテスタントの受洗をされた方で、私とはある縁でご本人が中心的な役割を果たす、毎月定期的に行われる朝食会でご一緒させて頂いています。
ちなみにギリシャ語の「イエス・キリスト」の「イエス」は名前にあたり、「キリスト」は「油を注がれたもの」を指します。そして、「イエス」はヘブライ語で「ヨシュア」の意味です。
最後にこの本の中で、山崎さんもまたこの私も、心に深く刻みこまれた箇所をご紹介したいと思います。それはヨシュアが少年マイケルに起こした奇跡的な出来事への医師の質問に対するものです。「日々の営みはすべて果てしない奇跡に満ちています。ただそれがあまりにもごく自然によどみなく日常的に流れていくので、(私たちは)つい当たり前のことと考えてしまう。しかし、小さな出来事の一つひとつ、時の流れの一瞬一瞬は創造の奇跡なのです」(353頁)。
メリー・クリスマス。
2005年05月30日
ヤマハグループを世界に導いたカリスマ経営者、川上源一さんを偲ぶ
5月25日はヤマハの中興の祖、川上源一さん(1912-2002)の3周忌でした。私の20代に、川上さんと出会う事ができたのは本当に幸運でした。
3年前の7月、前社長の石村和清さんから招待を受け、浜松で行われた川上さんとの「お別れの会」に出席させていただきました。4,000人を超える弔問客すべてを収容するホールを借りきったその会は、まるでコンサートのようで、川上さんの生前を彷彿とさせる型破りなものでした。
川上源一さんは、日本の戦後高度成長期に、類まれなる経営手腕でヤマハを世界的な企業グループに仕立てた人物です。
私がまだ25歳ぐらいの駆け出しの頃、何人かの外部発案でヤマハが提唱するポピュラー音楽の普及のため、川上さん主催で民放ラジオ・プロジューサー会を定期開催しました。川上さんは毎月欠かさず浜松から上京し、新曲の紹介や意見交換を行い、年齢や立場の違いなど一向に気にせず、自分がいいと思ったら誰にでも、ためらわず真剣に接する人でした。
当時の日本楽器製造(現ヤマハ株式会社)はソニー、資生堂と並ぶ三大花形企業として急成長を遂げていました。私は学生時代に音楽をやっていたこともあり、就職先に日本楽器を志望しましたが、クラブ活動に明け暮れていたため成績が悪く、書類選考にもれました。そんな中、クラブでのプレーイング・マネジャーの実績が買われ、幸運にも社長推薦で入社できました。しかし、大きな歯車の中に組み込まれるのがたまらず、入社後三ヶ月で退社してしまいました。その後独立し、今の会社を始めましたが、最初の顧客はヤマハでした。川上さんが社長として最も輝いていた70年代、ヤマハが戦略的な国際展開をするなか、さまざまなプロジェクトで、ヨーロッパやオーストラリアに派遣され鍛えられていったことが懐かしく想い出されます。
織田信長的な、天才的で強烈な個性のもとで、スケール感のある事業が次々に打ち出されました。楽器、スポーツ用品、レジャー施設の拡大、ヤマハ音楽教室の国内・海外展開、そして吉田拓郎、中島みゆきなどの多くのポピュラー音楽家を輩出したポピュラー・ミュジック・コンテスト(ポプコン)や世界歌謡祭の開催。また、ヤマハ発動機における、オートバイ事業を核にしたヨット、パワーボート、ジェットスキーなどマリン事業へも参入を果たし、情熱的で心ときめかせる事業展開には目を見張るものがありました。
川上さんの事業のユニーク性は、「人間が生きていくための生活必需品は一切作らず、ひたすらその生活や人生を豊かにする製品やサービスを提供する」という点にあり、この特色こそが、ヤマハグループを世界にも類を見ない特異な存在にした所以ともいえます。
川上さんの「スピード経営」は、1968年の日本初の株式時価発行にみられるように、グローバル時代のCEOに必要とされる経営戦略構築力と経営遂行上の迅速な意志決定など、21世紀の企業経営にも通用する手法でした。
音楽家を目指していた若き日のソニーの大賀さんと川上さんとの交流は、一部の人には良く知られています。大賀さんのソニーでの経営手法は、川上さんのそれと極めて近いものがあったといえます。両者の経営戦略に共通するのは、「自社のブランドを最高のものにする」ことでした。
以前、大前研一さんの著書『やりたいことは全部やれ』(講談社)の中で、「戦後の経営者の中で誰が一番すごかったか、という質問を受けたら、私は迷わずにヤマハの川上源一さんではないかと答える………創造的破壊力においては、誰をも寄せ付けないくらい強烈なイノベータであった」とその印象が語られていたのを思い出します。
いまさらながら驚くべき先見性と信念、そしてそれらを抱合する独自の経営哲学をもった、そんな川上さんの下で、私の青年期、身近に仕事をさせて頂いたことに感謝するのみです。













