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2008年08月23日

水しぶきの中の青春 2

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

8月8日から開催されていた北京オリンピックも閉幕しました。日本は9個の金メダルを含め計25個のメダルを獲得。その中でも2つの金メダルを手にした水泳の北島康介選手の平泳ぎ(100m、200m)は他を圧倒しました。科学的に研究され完成された泳法であったこともさることながら、北島選手の勝負にかける気迫が金メダルを引き寄せたといえます。

8月の日曜日の午後、母校立川高校のプールに3年ぶりに行きました。ちょうどTV番組で繰り返され放映される北島選手の完成された泳法を目に浮かべながら、高校時代水泳部で毎日練習に明け暮れたことが想いだされました。

■サンタクララ・スイミング・クラブの選手に圧倒される
高校時代、私の脳裏に焼き付いている一つの光景があります。それは神宮プールでのインターハイに出場した2年の時、当時来日していた、米国のサンタクララ・スイミング・クラブ(現在のシリコンバレーにある)のスイマーたちのことでした。

サンタクララ・スイミング・クラブは、当時、自由形の天才スイマーといわれ64年の東京大会で100/200m自由形で金メダルを取った、ドン・ショランダーをはじめ、その後72年のミュンヘン大会で7つの金メダルを獲得したマーク・スピッツなど、科学的トレーニングで数々の名選手を輩出した有名なクラブ。このクラブに所属するドナ・デバロナやリチャード・ロスとプールサイドで一緒になるチャンスがあったのです。

なかでもリチャード・ロスと並んだとき、彼の180cmを超える身長と太い腕をみて圧倒されたのでした。その少年はまだ中学3年生。彼は3年後の東京オリンピックでは400m個人メドレーで金メダル(デバロナは女子の同種目で金、400メドレーリレーで金)を取りましたが、彼らを目のあたりにしたときに、肉体的に優れていないと世界では勝てないのではないかと衝撃を受けたのです。それ以来、水泳で頑張ろうと思っていた私の頭の中で肉体的なハンディがトラウマになったのです。

■山中毅さんとの出会い
山中毅の名前は、年配者でその名を知らない人はいません。彼は石川県輪島高校の2年生のときメルボルン・オリンピックにデビュー。1960年のメルボルン大会では、豪州のマレー・ローズらと競い、400mと1500m自由形で日本に銀メダルと銅メダルをもたらした人。その後、200m/400m自由形で世界記録を作るなど古橋広之進以来の日本水泳界のヒーローで、水泳に青春をかけた私にとってはあこがれの人でした。

私が立川高校2年の春休みから、東伏見にある早大(稲泳会)の合宿所に通い出した頃は、山中さんが社会人として大洋漁業に行き先が決まり早大を卒業するとき。そこで直接会うことはありませんでした。それから40年ほど経った数年前、偶然にご本人と初めてお会いする機会を得たのです。

私の目の前に立つ山中さんは、体を患い痩せていたこともありましたが、かつてTVで観た、世界新記録を何回も塗り替えた筋骨たくましい山中毅のイメージからほど遠い、私より小柄で身長170cmに満たない人だったのです。この体の人が世界と闘っていたとは。肉体的なハンディを乗り越えてクロールで世界の頂点に上り詰めた山中さんとあの頃東伏見のプールで出会っていたら、神宮プールでの衝撃に臆することなく、そして伏見の合宿で自分の泳法を変えられたぐらいで意気消沈することなく、リスクをとってでも勝負していたかもしれません。

それだけに176cmの北島選手が肉体的なハンディを乗り越え2大会続いて世界新で金メダルを取ったことはまさに驚異的だったと思うのです。
久しぶりの母校のプールサイドで先輩や後輩と交わるなか、ふとそんなことを考え、往時のことや仲間たちと過ごした45年前に思いを馳せたのでした。

投稿者 Inoue : 08:34 | トラックバック

2008年05月10日

ある友人の死
 ~「源氏物語」映画化の夢を追い続けたフランス人

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

先日私の長年のフランス人の友人の奥さんから電話がありました。
私の留守中に何度かあったとのこと。ふだん奥さんが電話をかけてくることはないので、胸騒ぎを覚えながら、オーストラリアに住む彼の家に電話を入れました。電話の向こうで、奥さんのカルメンが彼女の夫が亡くなったことを泣きながら伝えてくれました。

最近は友人関係で、本人以外で奥さんやお子さんからの連絡の大半は、本人の事故の知らせや訃報であることが多いように思います。今回も無意識のうちに頭のどこかで彼の身の上に何かが起きたのではと、覚悟していましたが、さすがにこの突然の訃報に気は動転しました。その知らせは、彼が3月の終りに旅行先のイタリアの奥さんの実家で亡くなったというものでした。気がついたら末期癌だったようです。彼女からの電話は、友人の死の直後に彼女の出したメール(ジャンクメールに埋没)に、私から返事がなかったことを心配しての連絡でした。

友人の名前はジル・ジャーマン。オーストラリアのケアンズから100kmほどにあるデインツリーに住んでいました。そこはデインツリー国立公園のなかで、近くに1988年世界界遺産に登録された場所がある広大な熱帯雨林。彼はそこで高級コテージ( http://www.cockatoohillretreat.com.au/ )を経営する傍ら映画ビジネスにも携わっていました。

写真:ジルの経営している 写真:ジルの経営している Cockatoo Hill Retreat

■モロッコ生まれ、5つの国に住んだ国際人
ジル・ジャーマンの生まれた国は、当時フランス植民地だったモロッコ。その後、フランス、スイス、スリランカ、そしてオーストラリアマと5カ国での生活体験をもつコスモポリタン。

彼と初めて出会ったのは、今から30年以上も前の、ヤマハ主催の世界歌謡際でした。1970年から20年間ほど続いた日本最大のポピュラーソングの音楽祭。世界50カ国以上から参加するミュージシャンのコンクールで、日本武道館で3日間にわたり毎年秋に開催されていました。レコード会社を経営していたジルは、スリランカに住んでいたこともあり、そのときにスリランカ代表を連れて来日したのです。

当時、武道館での3万人の動員の外部責任者として関わっていた私はスリランカグループのスピリチュアルで透きとおった美しいハーモニーのコーラスに魅せられ、たちまち意気投合。その後、ジル・ジャーマンは拠点をオーストラリアのシドニーに移しましたが、レコード・ビジネスで来日のたびに親交を深めていきました。


■「源氏物語」映画化に向けて
彼と仕事で具体的に関わるようになったのは、1988年、私がメルボルンで開催されたパブリック・リレーションズ(PR)の世界大会(11th IPRA World Congress)への出席の帰り、当時シドニーにあった彼の家に立ち寄ったときでした。そのときジルの口から初めて、源氏物語の国際合作映画を作る話を知らされたのです。映画の内容は、11世紀と現代をパラレルで進行させるという極めて独創的なものでした。当時、経済超大国になった日本はパブリック・リレーションズ不足で世界に不必要な誤解と悪いイメージを与えていました。そんな中、このプロジェクトは私にとっては日本のイメージを変える格好の素材として映ったのです。

ジルはマルチ・カルチャーが理解できる人間でした。この源氏物語の映画化プロジェクトをプロデユーサーとして立ち上げようとしていたとき、彼は日本人の忍耐強さと「許し」の精神について度々私に話したものです。 「日本人は、広島、長崎で原爆を落とされ、あんな悲惨なめにあっていてもなぜ、アメリカ人を許しているのだろうか?」。 そのとき、彼の質問の意味やその背景について私はよく理解できていませんでした。しかしそれらはその後しばらくして彼の体験を知って理解できるようになったのです。

アルジェリアがまだフランスの植民地だったころ、ジャーマン家はそこで3-4世代にわたって、フランス軍へ毎年大量(100万本)のワインを納める葡萄農園を経営していたようです。その後、アルジェリア独立運動の機運が高まり、家族はモロッコに移住します。1950年に彼は首都ラバトで生を受けますが、紛争はモロッコにも飛び火します。運命は彼の幼少時代に悲惨な体験を強いることになります。それは内戦状態の中で彼の叔父さんが、テロで殺されるのです。家の玄関のドアに磔にされた無残な姿をジル少年は目撃したのでした。

フランス人は気短な人が多いといわれていますが、彼には、その気はまったくありません。おそらく彼の少年の頃の体験と、回教徒のなかで育った環境で忍耐強くなったのでしょうか。

彼の生い立ちを知ってから、「許し」の意味がより深くわかるようになりました。映画のタイトルは Genji-The Shinning One 。根底に流れるテーマを「許し(Forgiveness)」としたのです。日本人のアメリカ人への許しと、少年時代、叔父を殺害した暴徒への彼自身の許しが二重になっていたのかもしれません。光源氏と、彼が尊敬してやまない父帝が愛した、藤壺との間にできた不義の子。父に許しを乞おうとする光源氏の心の葛藤。平安時代の絢爛豪華で芳醇な時代背景で展開されるストーリーと、現代、同様な境遇にあるアメリカ人家族で繰り広げられるドラマが時代を超えて交差していきます。

人間の弱さや罪深さを「許し」をテーマにスクリーンで表現したかったジル・ジャーマン。彼が1988年に映画制作を企画してもう20年が経ちました。

日本での制作の責任者には、黒澤明の監督時代に助監督を経験し、東宝映画のゴジラ・シリーズ(ゴジラ対ヘドラ)で監督を手懸けた坂野義光さんも加わり、衣装担当にお願いしていた和田エミさんや源氏物語の英訳者のサイデンステッカーさんなどと映画について夢を語ったものです。

アメリカのアービン・カーシュナー(「スター・ウオーズ帝国の逆襲」監督)も総監督候補者として自ら名乗りを上げ、打ち合わせに来日したこともありました(写真中央)。

在りし日のジル・シャーマン:写真に向かって右から、J・ジャーマン、筆者、アービン・カーシュナー、ボブ・エリス(脚本家)、坂野義光 うかい鳥山(高尾)にて

この映画プロジェクトは、彼のその後のホテル・ビジネスへのかかわりや制作予算が大きいことなどもありいまだ実現に至っていません。しかし昨年あたりから再開されるようになりその矢先のことでした。それだけに今回のジル・ジャーマンの死は悔やまれてなりません。

ジル・ジャーマンの音楽や芸術に対する感性は卓越したものがありました。フランス料理の腕はプロ顔負けで、家に遊びに行ったときはその腕を披露してくれたものです。スイスの大学で知り合ったカルメンは陶芸の先生もしているよきパートナーでした。

彼は生前よく、デインツリーの素晴らしさを語ってくれました。住まいを流れる小さな浅い川は、「天然の白いマーブル石を敷き詰めたプールのようで、川底から映す色はコバルトブルーの輝き、世界中どこにもないから、一度是非見にきて」とトロピカルで神秘的な場所を気に入っていました。彼が生きているうちに行けなかったことが悔やまれてなりません。

ジル、長い間あなたと夢をシェアーできて幸せでした。できるだけ早い時期に、あなたの愛したデインツリーを訪問します。そして、残された者とあなたの精神を受け継いでこの映画が実現できるよう努力します。そのためにあなたの力をください。

投稿者 Inoue : 15:00 | トラックバック

2007年05月04日

私の心のふるさと、都立立川高等学校

五月の輝く陽光と新緑の美しいこの季節。私は毎年この時期になると想いだす場所があります。

それは私の母校、都立立川高等学校。中央線立川駅から南に歩いて5分ほどの距離にある、この学校の当時のシンボルマークは豊かな緑に包まれた広い校庭と、3階建ての校舎の上にある天文台でした。

新宿区の中学校(西戸山中学)を卒業した私は、実家が三鷹に引越したことを契機に高校進学では立川高校を選びました。多摩川の清流と緑に囲まれた自然の中のこの学校は、知り合いが誰もいない不安な15才の少年を明るく迎え入れてくれました。

立川高校は、1901年創立の府立二中を前身とする都立高校。多摩地区に位置するこの高校は、地元では親しみを込めて「立高」と呼ばれています。 また、現在に至るまで東京都知事(鈴木俊一さん)を始め、とりわけ多摩地区の多くの自治体の首長を輩出してきたことから「市町村長学校」とも呼ばれているようです。

■ 校風は「文武両道」、「質実剛健」
当時の校風といえば、「文武両道」、「質実剛健」。そこには、自由で闊達な風土をもち、勉強を強制されることなく、自分が目指したい道を一心に突き進める環境がありました。

水泳に青春をかけていた私の思いだす母校の風景は、豊かな緑とまぶしい太陽にきらめくプールの水しぶきです。水泳部の屋外練習は3月20日ごろからが始まりますが、本格的に水のなかで練習がスタートするのは5月の初旬。新緑に映えた水面はキラキラ輝いていました。

そこで過ごした3年間、たくさんの友人と巡り合い、共に青春時代を過ごしました。その関係はさながら兄弟のようなもの。全国から集まった大学の友人とはまた違った人間関係がそこにはありました。特に公立の高校は地域性が強く、その地域の持つ風土や文化を共有する仲間とは、ふるさとを同じくする特別な関係にあるといえます。

■ 友情で、人生はより輝く
4月のある日、立川のホテルで、3年ぶりに学年同窓会が開かれました。そこに集まったのは150人ほどの同期の卒業生と、当時の担当教師。いまや70代後半から80代となった先生方もその年を感じさせることなく元気な顔を見せてくれました。

数年ごとに開かれる同窓会とは別に、同窓生が2ヶ月に一度スナックバーに集まります。現在は新宿のとあるバー。最近はリタイアした人も出てきて、仕事から解放され益々自由に語り合えるようになりました。そこは会った瞬間、時空を超えて45年前の青春時代にタイムスリップしてしまう。そんな空間。

スナックバーには、自由豪快な校風を反映して個性豊かな友人たちが集います。インテリアデザイン界で今や大御所となったスーパーポテトを主宰する杉本貴志君、大蔵省時代審議官として活躍した中井省君(現ロッテ製菓役員)、唯一3年間同じクラス仲間で日本経済新聞時代コラムニストとして活躍、いまでも時事問題に健筆を振るう田勢康弘君(現在早稲田大学院教授)、同じバスケット部仲間の青梅市長の竹内俊夫君と日野市長の馬場弘融君、最近同窓会にあまり顔を出さなくなったNTTドコモ社長の中村維夫君、手作りのケフィアヨーグルトを広めているケフィア倶楽部代表の佐藤ゆき子さん、そして高校入試で当時の東京都のアチーブメント・テストに900満点中895点のトップで立高に入学した、水泳部仲間でカメラマンの小川智夫君など、活躍する分野も色とりどり。

高校の友人は、同じ土地から卒業後それぞれの道に巣立っていきます。将来への希望と夢を共有する仲間ともいえます。私にとって様々な分野に羽ばたいた仲間たちとのふれあいは、パブリック・リレーションズの実務家としての信念と夢を大いに刺激してくれました。

パブリック・リレーションズを政治の世界に持ち込んだといわれる、第3代米国大統領トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson,1743-1826)は言っています。

「友情は、試練の時だけでなく、人生の輝ける時にも大切なものです。そして、慈悲に溢れた友情を授かることで、人生はより輝くのです」

互いによく笑い、よく語り合う、いつまでも変わらない友情、その豊かな実りに感謝して。


投稿者 Inoue : 18:51 | トラックバック

2007年04月13日

河島博さんの死を悼んで
 ~2人のワンマン経営者に仕えた偉大なテクノクラート

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?

先日、ダイエーで取締役社長室長をやっておられた佐藤純さんから連絡がありました。元ダイエー副会長で元日本楽器製造(現ヤマハ)社長の河島博さんが亡くなったとの知らせでした。ここ何年間か体調を崩し、一線から退いていた河島さん。最愛の妻、タミ子夫人を失い49日を待たずにその後を追うように急逝した河島さんの訃報に、驚きを禁じ得ませんでした。

■ 46歳の若さでヤマハ社長に大抜擢
河島博さんとの初めての出会いは1977年。第4代ヤマハ(日本楽器)社長川上源一さんの後継社長として就任の時。私がヤマハを辞め、PR会社をスタートさせて10年足らずの駆け出しの30代前半のことでした。

その年、46歳にして河島さんはヤマハの社長に抜擢されました。当時46歳の社長就任は大企業では異例の人事として世間で騒がれました。河島さんは、当時ホンダの本田宗一郎さんの後継者として2代目の社長(現在同社の最高顧問)であった河島喜好さんの実弟。兄弟でライバル会社、ホンダとヤマハの社長となった二人はメディアの注目も集め、とても輝いていました。

日本が高度成長に沸く60年代、ヤマハを世界ブランドに仕立てた川上源一という天才的経営者のもと、実に多彩な人材が輩出されました。その筆頭が河島博でした。66年に河島さんは同社の米国現地法人ヤマハ・インターナショナル・コーポレーション(以下YIC)の上級副社長兼ジェネラル・マネジャー就任のために渡米、その後72年に社長就任。ヤマハグループ企業で川上源一氏以外に始めて社長に就任したのです。

1960年、ソニーやYKKが米国進出した同じ年、ヤマハは楽器とヤマハ発動機のオートバイを統合販売する米国の拠点としてロサンゼルスにYICを設立。河島さんが米国赴任する66年までに米国現地法人を持つ日本メーカーはわずか十数社程度。河島さんは日本で培ったヤマハ的なソフト・ハード両面を押さえた立体的な経営手法とアメリカの合理性を統合し、中・長期戦略に基づく徹底した現地化戦略を展開し、在任中の6年間で売上げを約10倍にする実績を挙げています。「現地生産」や「用途開発」など日本企業現地化の「モデル」を作り上げたとも言われています。

米国での輝かしい成功を収めた河島さんは、74年、本社常務として帰国。その2年後専務へと昇進。77年 1月には第5代社長に46才の若さで大抜擢されました。アメリカ経験の長い河島さんはパブリック・リレーションズへの理解がありました。

当時、取締役広報部長であった佐野雄志(故人)さんの直轄のプロジェクトに従事していた私は、河島さんの社長就任後初の外国メディアによる単独インタビューをアレンジしました。米国ビジネス誌FORTUNEの記者、Chanさんを浜松に同行し、社長室で初めてお会いしたときの河島さんの紅潮した顔は今でも強く印象に残っています。

就任後、同社の経営体制・収益体質を刷新の結果、3年で業績を回復し、3年目の決算では過去最高の経常利益を達成させました。しかし後継者問題に起因する当時の川上源一会長との確執が原因となり、80年6月、本人のアメリカ出張中に突然社長を解任されたのです。社長在任の期間はわずか3年あまりでした。3年目の決算数字は、河島解任後10年を経ても塗り替えられることはありませんでした。

■ 奇跡的なダイエーのV字回復
その後82年、河島さんはダイエーの中内功さんに請われダイエーの副社長に就任。ヤマハ時代、前述の広報部長の佐野さん(79年に48才で急逝)と2人3脚の深い信頼関係結ばれ、広報を経営の中枢に組み込み積極経営を行なっていた河島さんは、佐野さんと親交のあった私を「プロデュースN」というダイエー再生の為の外部ブレーン集団(6名)の一人に起用しました。それが縁で河島さんとは定期的にお会いするようになり、以来さまざまな私の会社の海外クライアント企業のCEOとのビジネス・ミーティングに快く応じてくれました。

そこで私が触れたのは抜群の経営感覚と、スピード感溢れるアメリカ流合理主義。経営危機に陥り有利子負債7千億円を抱え、約65億円の赤字会社を3年で黒字化。数百社におよぶ子会社の経営安定化を実現し、不可能に見えたダイエーのV字回復を見事に実現したのです。2001年、ダイエー再建のために社長に就任した高木邦夫さんは、このV字回復時の河島プロジェクトの中心メンバーのひとりでした。

加藤仁著の『社長の椅子が泣いている』(講談社、2006)によれば、その経営スタイルとは総合立体的経営だったとされています。内容を要約すれば、社会的責任や国際情勢に気を配りながらヒト・モノ・カネを有機的に活用し、様々な交流を通して従業員や取引先、株主など組織を取り巻くパブリック全てが利益を享受できるような経営でした。河島さんはまさに理想的なパブリック・リレーションズを80年代の日本で実践していたともいえます。

87年、河島さんは中内社長の要請を受け、倒産企業・リッカーの社長に就任し、同社の再建に着手。債務536億円をわずか5年で返済し、93年の売上高は350億円とピーク時の6割にまで回復させ、社長の椅子を後にしました。しかし残念ながらリッカーは、有利子負債が膨らんだダイエーの資本・債務再編のため中内社長の一存で同社傘下に吸収。そして97年河島さんの任期満了によりダイエー副会長を退任しました。ダイエーの経営危機が叫ばれ始めたのはその1年後。その後ダイエーは2004年10月には産業再生機構入りし、解体への道を辿っていくことになります。

強烈な個性を放つ2人のワンマン社長に仕えた河島さん。彼は結果を残しながらも、世襲という問題の前に2度にわたって同様な経験をしました。その要因には、株主本位の経営が行われる以前の日本的経営があったといえるでしょう。

河島さんは生前よく「私はテクノクラート(専門知識をもって組織運営する技術官僚)」といっていました。ダイエー時代は、ヤマハでの苦い経験がトラウマとなっていたのか、多くのメディアからの取材申し入れを断り続け、一切メディアに登場することはありませんでした。その意味で、当時の河島さんはメディア価値の最も高い人物の一人でした。

河島さんの構築したビジネスモデルは、グローバル企業のCEOに求められる経営戦略構築とその遂行における迅速な意思決定プロセスなど、現在でも優れた企業経営のなかに多く見いだすことができます。河島さんとの出会いとその後の交流をとおして、身近にその独自の経営観に触れることができ、私にとってビジネス人生のなかで貴重なものとなっています。

最後にお話したのは昨年の秋。電話の向こうで、体調がすぐれないので回復したらゆっくり会いましょうと弾んだ声が返ってきました。

出棺のとき河島さんの顔はとても安らかでした。その時流れていたベートーベンの「月光」が、いつも太陽の影となって生きた彼の人生を象徴しているかのようでとても印象的でした。多くのヤマハ、ダイエー関係者参列のもと、実兄の喜好さんや子供達に囲まれた荘厳なお別れでした。

河島さん、これまでいろいろありがとうございました。あなたのことは今後も永久に語り続けられることでしょう。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

投稿者 Inoue : 20:21 | トラックバック

2007年02月03日

日米の架け橋40年、神田幹雄さん
~両国の相互理解に賭けた人生

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか・

私は所属するある団体主催の会に出席するため、1月末から米国ワシントンDCを訪れています。世界の政治の中心地ワシントンで、日米の政治的・文化的交流に尽力する日米文化センター理事長の神田幹雄さんとお会いしました。今回は、日米の架け橋として40年以上にわたり米国で活躍してきた一人の日本人、神田幹雄さんについてお話します。

■ケネディ家との運命的な出会い
神田さんとの出会いは20数年前、共通の友人による紹介がきっかけでした。学生時代にロバート・ケネディ(当時司法長官)を早稲田に招聘した人として関係者の間では知られていた人で、ケネディが好きだった私にとって、同じ大学の先輩であったこともあり好奇心をそそる対象でした。当時の神田さんは、彼が創設した日米文化センターの事業の一環として日米学生論文コンクール(読売新聞後援)や全米日本語弁論大会を実施し、日米間を精力的に往復していました。

神田さんと米国との関わりは40年以上も前にさかのぼります。1963年11月22日、ジョン・F.・ケネディが暗殺されました。その悲報を受け翌12月、彼が設立した学生団体「日本青年国際問題研究会」で、その死を悼む一日がかりの「故ケネディ大統領追悼講演会」がライシャワー大使出席のもと、早稲田大学大隈講堂で催されたのです。この話を聞いた弟のロバート・ケネディ司法長官は翌年1月の来日の際、どうしても早稲田大学を訪問し、先の追悼講演会のお礼もかね日本の若者と接したいと強く希望したのでした。そして歓迎会開催の話が急遽持ち上がりました。

当時神田さんは、早稲田大学、慶応大学、東京大学など東京の大学の学生を中心に構成された前述の研究会の幹事長として、東大の責任者をしていた神崎武法さん(前公明党委員長)などと積極的に活動していたようです。60年代前半は日米安保条約反対を唱える学生運動が盛んだった頃。神田さんは不測の事態を覚悟で米国側の希望を受け入れ、大隈講堂でのロバート・ケネディ歓迎会を同研究会主催で開催することを決心し、その歓迎委員長を務めたのです。かくして64年1月、ケネディ司法長官の大隈講堂での歓迎会が実現。

会場には研究会メンバーの神崎さんをはじめとし、政治家グループの歓迎委員長を務めていた当時まだ気鋭の中曽根康弘さんや早稲田の大学院のクラスメートで議員一年生だった小渕恵三さんたちの顔も見られました。貧乏学生にとって、当日急遽依頼されたエセル婦人とハル・ライシャワー大使婦人へ贈呈する花束を買う余分なお金もなく、大学に頼み立て替えてもらった往時を懐かしそうに語っています。

歓迎会は無事に終わり、このニュースは世界を駆け回りました。これを機に神田さんとケネディ家との交流が始まったのです。その後同年10月、ロバート・ケネディの招きで米国に1ヶ月滞在。ニューヨーク州上院議員に立候補することになった同氏の選挙キャンペーンに同行したのです。最後の子供を身ごもったエセル婦人と共に、1週間同じ車で移動した時は冒険に満ちたものだったようです。当選が確定した日、夜中に始まったプライベートな祝賀パーティでは、お祝いに駆けつけたトニー・ベネット自身がBGMで「思い出のサンフランフランシスコ」を唄い、サミー・デイビス・ジュニアが熱唱するなど、その華やかな光景には圧倒されたそうです。

68年、そのロバート・ケネディ自身も、民主党大統領候補選出のための予備選挙キャンペーン中に銃弾に倒れましたが、彼の亡き後も神田さんと、エセル夫人を初めとするケネディ家との間の交流は続きました。

ロバート・ケネディと言えば、私は1998年、彼に最も風貌が似ているといわれる次男のロバート・ケネディJRが来日時、早稲田大学への表敬訪問をアレンジしたことがあります。彼を大隈講堂の壇上に立たせて、30年以上も前にその場所で彼の父ロバートが講演した事を告げると、彼は、当時の父親の面影を捜し求めるようにその場所にしばらく佇んでいたのがとても印象的でした。

■日米文化センターの残した功績
そして40年程前に神田さんは、政治・経済を抱合した日米間の文化交流を促進させる組織、「日米文化センター」をワシントンDCに創設。その後、米国公益法人の認可を受け日本事務所も構えて精力的に活動を行います。長くウォーターゲート・ビル内にその活動の拠点を置いていた同センターの主な活動は、米国の大統領候補から高校生までの日本招聘、議員交流、都道府県庁職員や大学経営者の米国研修、同センター主催のセミナー、日本語講座などです。なかでも日本語講座には国務省や商務省からも多くの役人が受講し、受講生のなかには商務次官やホワイトハウスの補佐官などの名前を見ることができます。

神田さんは日本の政治力、経済力がまだ弱く米国との間で十分なパイプがなかった時代に、ワシントンで独自の活動を始め、数多くの日本の外交官や政治家を米国議会やホワイトハウスの要人に引き合わせました。その交友関係は極めて幅広いものがあり、現在第一線で活躍している多くの日米の政治家や経済人、文化人との深い関わりが見られます。

大河原良雄さんをはじめとする歴代の駐米大使はもとより、前述の政治家をはじめ、宇都宮徳馬、三原朝雄、福田赳夫元首相、また大学同窓の森喜朗元首相といった人たちともユニークな交流を持っていました。現在国務大臣の高市早苗さんとは、彼女が松下政経塾時代、ワシントン研修で滞在中に同センターでアルバイトをしていたときからのお付き合い。

またジョージ・タウン大学にあった戦略国際問題研究所(CSIS)と共催で、福田赳夫元首相やブレジンスキーなどを交えたシンポジウムを行うなど日米問題に積極的に取り組んだのでした。

なかでも神田さんと沖縄返還実現に重要な役割を果たし、北方領土返還運動の先駆者でもあった末次一郎さん(2001年逝去)との親交は深いものがありました。神田さんがジョージ・タウン大学留学時代、末次さんのワシントンでの沖縄返還実現へ向けたロビー活動に関わったことがあります。陸軍中野学校出身の末次さんは、上下両院外交委員長・院内総務や国務次官との交渉の場面で、媚びることなく独自の論陣を張り相手を説得。同行した神田さんは、日本では数少ない民族主義者でもある末次さんのスケールの大きい立ち振る舞いに深く感銘を受けたそうです。

ちなみに末次一郎さんは日本健青会を創設してシベリアに抑留されていた日本軍人の帰還などの戦後処理活動を積極的に行い、青年海外協力隊の創設に努めるなど戦後日本の国づくりに尽力された方です。彼のことは後日このブログで採りあげたいと思っています。

90年初めには『アメリカの本当の素顔―ワシントン・レポート』を出版(1991年,PHP研究所)。同書はユニークな視点で80年代のアメリカの実像に迫った名著といえます。

ロバート・ケネディとの出会いから43年、神田さんの長年にわたる日米の良好な関係構築に対する貢献の大きさは、2004年東京の日本プレスセンターで開かれた、「日米文化センター創設25周年を祝う会」にロバートの遺児で長男のジョセフ・ケネディJRから贈られた祝辞に象徴されています。

「日本の人々、文化、友情、日米両国の関係が持つ意味について、私たちアメリカ人の理解が深まるよう尽力されてきました。彼ほどアメリカにおける日本の地位を高めてきた人を私は知りません」

神田さんは40年に及ぶ滞米生活にも拘らず、あえて米国籍を取得することなく、日本人としてのアイデンティティを持ち続けています。
ご家族は、アメリカで知り合った令子夫人との間に2人のお嬢さんがいます。令子夫人は30年以上にわたって国連や世界銀行に勤務しており、2人のお嬢さんは国連や日本のJICAの仕事でウィーンやジャカルタで国際公務員として活躍。

体に自信があった神田さんは昨年6月には心臓を患い、米国で19時間にも及ぶ大手術に耐え抜き成功させました。今回は、新年に東京でお会いしてから1ヶ月ぶりの再会。
神田さんの体が順調に回復に向かっている様子に安堵しつつ、健康とこれからも日本と米国を繋ぐ橋渡し役として末永くご活躍されんことを心より祈ってやみません。


来週は、昨年9月にグルーニッグ教授を訪問したのが縁で招聘された、メリーランド大学でのパブリック・リレーションズの特別講義と現地でパブリック・リレーションズを学ぶ学生についてお話します。


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好評発売中の『パブリック・リレーションズ』
(井之上喬著:日本評論社)第2刷が発刊されました!


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2006年09月08日

ハッピー・アイランド、Hawaiiでルアウ・パーティー

こんにちは、井之上喬です。
残暑が続いているようですが、皆さん、いかがお過ごしですか。

皆さんは2重の虹を見たことがありますか?
9月の初め、10数年ぶりに訪れたハワイで私を迎えてくれたのは、大きな弧を描いて山から海へとまたがる二重の虹でした。 その虹は7色の強い光を放ちながら滞在するホテルの部屋から50メートルの眼前に迫ってきました。やがてその巨大で立体的な造形物は、ゆっくりと海から山へ、シャワーと呼ばれる霧雨を連れて島を移動していきました。

大きな弧を描いて山から海へとまたがる二重の虹

その美しさと荘厳さに感動した私がタクシー・ドライバーに尋ねると、ダブル・レインボーは地元の人でも1・2年に一度しか見られないラッキーサインだといって祝福してくれました。

今回は、そんなハッピー・アイランド、オアフ島からハワイアン・ルアウパーティのお話をお届けします。

■月光と満天の星を仰ぐガーデン・パーティ
9月4日、「早稲田大学ナレオ稲門会」創設10周年を記念してハワイアン・ルアウパーティが開かれました。1927年、ワイキキ・ビーチにオープンした「 ピンク・パレス」と呼ばれる歴史的なホテル、ロイヤルハワイアン・ホテルのオーシャン・テラスで行われたパーティには、 総勢200人近くが集まり、本場の華やいだトロピカルな空間でハワイアンを楽しみました。

司会はナレオOBの露木茂さん。日本からは、家族や友人を伴った総勢140人を超える老若男女。そして大学の白井総長も駆けつけてくださいました。地元稲門会との交流会も兼ねたこのパーティにはハワイ稲門会の中村幹事長以下、30人ほどのメンバーも参加。地元出身のプロ・ゴルファーのデイビッド・石井さんもお祝いに足を運んでくださいました。

特設ステージでのハワイアン演奏やフラダンスで場内は盛り上がりをみせ、白井総長も飛び入りで「ブルーハワイ」を唄い大喝采。元グリークラブでバスを担当していた当時と変わらない張りのある素晴しい声を披露してくださいました。色とりどりの花飾りや衣装を身に着けて、各々が思い思いの時間を心行くまで楽しみました。

■パワフルな仲間たち
今回は偶然にも、ホノルルで長期滞在していた日本広報学会の仲間に会いました。早稲田OBで大学助教授でもある彼を誘い、 前日にヨット・ハーバーで行われたパーティに一緒に参加しました。音楽とはあまり縁がなかった彼も楽しんでくれたようです。

4年前から始まったこのツアーに、今回、私は初めて参加しました。そこで感じたことは稲門会のパワーです。まだまだ現役で活躍し人生を謳歌しているメンバーから発せられるエネルギーは相当なもので、その力強さには改めて驚嘆させられました。

1980年代、毎年1月ホノルルで開催されるPTC(太平洋電気通信協議会)の総会にメンバーとして出席していた私にとって、ハワイでの3日間は想い出深いものとなりました。

滞在中にさまざまな人と接し、語らい、久しぶりに日常から離れ、リラックスした休暇をゆっくり過すことができました。これも、ホスピタリティ溢れるハワイの人々や大自然のなかで悠久の時を刻むハワイアン・タイムのおかげかもしれません。

Aloha and Mahalo(さようなら&ありがとう)
また、この島に戻ってくる日を楽しみに…。 


PS:来週はボストンに飛び、1947年米国で初めてパブリック・リレーションズ学部を創設したボストン大学でパブリック・リレーションズの教鞭を執る、Dr. Otto LervingerとDr. Don Writeの二人の教授のお話をします。

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2006年04月21日

-第5の経営資源-
「パブリック・リレーションズ」出版記念パーティ開催!

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?

4月17日、日本プレスセンターで「パブリック・リレーションズ」の出版記念パーティを開催しました。

当日、出版元の日本評論社から、発売の第1週に丸善本店でビジネス書部門第8位、続いて神田の旭屋で同じく第5位にランクインされたとの報告を受け、順調な滑り出しに勇気づけられオープニングを迎えました。


■小川さんのジャズピアノで
会場となったレストラン・アラスカでは、大きな窓から日比谷公園の緑を満喫することができます。演奏に駆けつけていただいたピアノの小川理子さんとベースの小林真人さんのデュオによるジャス演奏は、さながらニューヨークを想いおこさせてくれました。

発起人代表である片方善治(情報文化学会会長)さん、石村和清(ヤマハ相談役)さんの挨拶を皮切りに、早稲田大学大学院教授の北川正恭さん、アメリカンファミリー生命保険の創業者兼最高顧問の大竹美喜さん、作家の猪瀬直樹さんなどからのご祝辞をいただきました。いずれも日本が必要としているパブリック・リレーションズの将来への期待と暖かい励ましのお言葉でした。

皆さんのスピーチのなかには、第5の経営資源ともいえるパブリック・リレーションズの機能と役割、そしてその学問的な位置づけなどが触れられていました。この本で私の意図するものへの理解と、パブリック・リレーションズの可能性に多大な期待をお寄せいただいていることを改めて知らされ、深い感銘を受けました。

■200名の人達に囲まれて
会場には、日頃から個人的にお世話になっている方々、高校時代や大学時代の友人、早稲田大学や、PR業界関係者、取引先の皆様など、財界、政界、官界、学会などさまざまな分野から200名近くの方々にお越しいただきました。なかにはニューヨーク、ワシントンDC、ソウルなど海外から遠路お祝いに駆けつけてくださった方もいらっしゃいました。

出席されなかった方で、IPRA会長のチャールズ・ヴァン・デル・ストラッテン男爵や映画監督の大林宣彦さんなどからも祝電をいただくなど、多くの方々から心強いメッセージをいただきました

なかでも、とりわけ嬉しかったことがありました。それは私の長年の友人で、2年前に亡くなった高崎望さんの奥様の絢子夫人が出席してくれたことです。私をアカデミックな世界に導いてくれた高崎さんの存在を近くに感じながら、夫人と共に喜びを分かち合えたことを心より感謝しています。

このブログを読まれている皆さんと何よりも喜びを共有したかったことは、当日会場で感じられた「パブリック・リレーションズに対する大きな期待とある種のエネルギー」でした。会場は、さながら「パブリック・リレーションズに満ちあふれた空間」が出現したような、そんな独特の雰囲気に包まれていたような気がします。

翌朝、前の日にわざわざ駆けつけ祝辞をくださった大学時代のナレオハワイアンズの先輩、浅井愼平さんから電話がありました。そのなかで、「日本ではこれまでパブリック・リレーションズが学問として研究されてこなかった」ことや「日本導入の際に、パブリックを『公共』と訳したのが間違いだった」こと、そして「パブリック・リレーションズという、日本社会にない概念を導入することの難しさ」など、日本のパブリック・リレーションズについてご自身の考えを真剣に語ってくれました。慎平さんと音楽以外の話でこんなに盛り上がったのは初めてだったかもしれません。

その後、嬉しいニュースが飛び込んできました。パーティ参加をきっかけに、ある外資系企業の社長が「パブリック・リレーションズは企業経営に役立つ」と理解して、幹部研修用に「パブリック・リレーションズ」の本をマネージャー・レベル以上に支給すると決定したという知らせでした。

まさに、ひとつの「集い」が新しい何かを生み出すきっかけとなることを実感した瞬間でもありました。日ごろ北川さんがおっしゃるバタフライ効果のように、パブリック・リレーションズに対するエネルギーがじわじわと日本列島に広がっていくことを願っております。

そして何よりも発起人の方々やお忙しいなか会場までお越しくださった多くの方々に支えられ、素晴らしいパーティを開催して頂いたことを心より感謝します。当日、十分なおもてなしができなかったことをお詫びすると共に、これからも何卒ご支援賜りますようお願い申し上げます。

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2006年03月31日

春爛漫、桜の季節に思いをはせる

こんにちは、井之上喬です。
いよいよ本格的な春の到来。桜が美しく咲き乱れる季節となりました。皆さん、いかがお過ごしですか。

日本の国花として愛される「桜」。古くは万葉集や古今集に歌われ、今も春の訪れを告げる花として多くの人に親しまれています。桜の雅やかな姿を愛でて楽しむお花見も日本の美しい文化のひとつです。

■恒例の新宿御苑でのお花見パーティ
私のオフィスは新宿御苑から歩いて数分のところにあるので、従業員のみなさんとの御苑でのお花見は毎年恒例となっています。今年も3月29日に桜の会を開きました。真昼の広い公園に光り輝く美しい桜の木の下の芝生で、皆でお弁当を広げてビールやワインなどで乾杯しながら日本の風情を味わいました。

新宿御苑といえば東京の桜の名所として知られています。2月の寒桜から3月にはソメイヨシノ、4月下旬のカスミザクラまで約2ヶ月のあいだ、約75種1500本もの桜が次々に花開き私たちの目を楽しませてくれるのが魅力です。

約17万6000坪の敷地はもと高遠藩内藤家の下屋敷があったところで、1879年(明治12年)に新宿植物御苑となり皇室の園遊会などに使われていました。第二次大戦後に一般に解放され、現在は国民公園となっています。

新宿御苑に面した通りには素敵なレストランがいくつかあります。なかでも「ラ・ボエム」というイタリアン・レストランは、高い吹き抜けの、公園側が天井までつづく一面ガラス張りのお店で、その向こうに青々とした木々を仰ぐことができます。さながら森の中のレストランといった感じです。その他にも有機素材を食材につかった、可愛らしいモダンな雰囲気の中華レストラン「礼華」や大木戸門入り口前の洋食レストラン「自由軒」など、緑を楽しみながらお食事がいただけるお店で、お花見の余韻を味わいながら食事をされるのも面白いと思います。

新宿御苑では今週末から来週にかけてソメイヨシノが満開を迎えるそうです。ちなみに開園時間は朝9時から午後4時まで(閉園は午後4時30分)で入園料は200円。通常は、毎週月曜が休日(月曜が祝日の場合は、その翌日)となっていますが、3月25日から4月24日までは特別開園期間で毎日開園。桜の清楚で雅やかな魅力を新宿御苑で味わうのも良い思い出になるかもしれません。

■思い出に残る、アップルの人たちとのお花見
この季節になると毎年ある光景を思い浮かべます。それはいまから20数年前、私の会社井之上パブリックリレーションズのオフィスが九段にあった頃のこと、当時クライアントであった米国アップル・コンピュータ社の日本法人(アップル・ジャパン)設立準備オフィスとして九段の事務所を提供し、サポートをしていました。そんな関係で、今は亡きアップルの福島正也さん(日系二世で初代アップル・ジャパン社長、2002年逝去)や米国本社から派遣され法人設立責任者のビル・ションフェルドさんなどと、オフィス脇の千鳥ヶ淵で満開の夜桜を楽しみながら、すき焼きパーティをしたときのことです。すき焼きの匂いに引き込まれた通りすがりの人たちが私たちの宴席に加わり、陽気なアメリカ人と飲んで食べて歌ったことを昨日のように想い出します。


最後に、心に残った桜の歌を一句ご紹介します。


「見渡せば 春日の野辺(のべ)に 
  霞(かすみ)立ち 咲きにほへるは 桜花かも」 
   詠人知らず 『万葉集』巻十 1872


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2005年12月23日

稲畑産業前社長、故稲畑武雄さんを偲んで

去る12月1日、稲畑産業株式会社の前代表取締役社長であった稲畑武雄さんが、今春からの闘病の末、肺がんのためこの世を去りました。享年67歳でした。

稲畑さんとの出会いは今から7年前、赤坂にあったジャズ・クラブ「ボッカチオ」に置いていた私のヴァイブラフォーン(ヴァイブ)が、同店の銀座移転に伴い、移動されたのを機に久しぶりにその楽器に会いに、はじめて銀座・ボッカチオに行った時のことでした。

お店に入ったとき、あるジャズ・バンドが演奏していました。小柄で痩身に大きなバリトン・サックスを抱え込むようにして吹いている人に目がいきました。その奏者が稲畑さんでした。そのジャズコンボは、ビックバンドとして6大学で名を馳せた慶応大学ライトミュージック・ソサエティ(俗称:ライト)のOB仲間で結成されたバンドで、毎週火曜日の夜にそのジャズ・クラブで演奏していたのでした。

その夜、ヴォッカチォで稲畑さんを初めて紹介されたのですが、「稲畑産業、稲畑武雄」の名刺をいただいたときはとても驚きました。それは以前、稲畑さんの従弟にあたるNPO団体、地球ボランティア協会(GVS)専務理事の稲畑誠三さんの紹介で、武雄さんのお兄様で、稲畑産業社長(現会長)をやっておられた稲畑勝雄さんとお会いしていたからでした。ペルーの日本大使館人質事件で仲裁人をしていたシプリアーニ大司教来日の際、滞在中の世話役をしていたGVSの依頼で同大司教に同行し、大阪で紹介されたのです。そんな関係で、武雄さんとは初対面でしたが、共通の話題で時間の経つのも忘れるほどでした。

稲畑さんとはボッカチオや、その後移動した六本木のジャズ・クラブ「ファースト・ステージ」などで顔を合わせる機会があえば、ライトOBバンドに私のヴァイブを加えてセッションをやらせていただくなど楽しませていただきました。

ご本人とは高校(甲南高校)時代のスポーツ(野球:ピッチャー)の経験や音楽、また社会的価値観などで共有できるものを多く感じていました。

最初にお会いしてから暫くして、稲畑さんから「井之上さん、うちの会社で是非パブリック・リレーションズを採り入れたい」と相談を受けました。日本の上場企業の社長の口から「広報」ではなく「パブリック・リレーションズ」という言葉をはじめて耳にしたとき、大きな驚きを覚えたものです。それ以来、お仕事をとおしてのお付き合いもさせていただき、稲畑産業の新しい企業創造のためにPRの専門家としていろいろと関わらせていただきました。どれもこれも今は懐かしく想い起こされます。

稲畑産業株式会社は、創業明治23年(1890年)、115年の歴史をもつ東証一部上場の商社です。現在の従業員数は約2,500人、世界の約50の地域を拠点に事業を展開しています。稲畑武雄さんは5代目の社長として1998年に就任し、亡くなるまで現職にありました。

創立者である御爺様の稲畑勝太郎翁は明治時代のフランス留学時に出会った映写機シネマトグラフ(1895年フランスのオギュースト・リュミエール、ルイス・リュミエール兄弟により発明)を日本に初めて輸入紹介した人として知られています。1897年、この映写機で日本初の映画上映をしたのも勝太郎翁でした。

稲畑さんの経営手法はアメリカのCEOを彷彿とさせるもので、重要案件には本人が直接かかわり、強いリーダーシップでビジネスを推進するといったものでした。社長在任中はきたるべくグローバル化に備え海外事業やIT事業に傾注し、そのリーダーシップを遺憾なく発揮されました。また人材も、日本人従業員だけではなく国籍、皮膚の色、男女、年齢、宗教のわけ隔てなく新しい「稲畑人」を養成し積極的なビジネスを展開されました。

最後にお話したのは9月の終わりでした。ご自身のご病気についてあまり深刻にお話しされる様子もなく、「いずれ回復したら食事をしましょう」と交した言葉が最後でした。お会いできるのを楽しみにしていた矢先の突然の訃報は衝撃でした。遣り残していることがまだまだあったのに本当に残念です。会社は新社長の稲畑勝太郎さんのもとで、武雄さんの敷かれた路線を立派に引き継いでいかれることでしょう。

数年前の夏に、稲畑さんは治子夫人と同伴で私の学生時代の音楽クラブ、「ナレオ」恒例のディナー・ショーに来ていただき共に学生時代に戻り往時を懐かしんだものです。

稲畑さんはとてもまじめで誠実な人でした。告別式は12月6日、四谷のカトリック「聖イグナチオ教会」で行われました。棺の前で最後のお別れをしたとき、その透き通った御顔はまるで眠っているかのようにとても安らかでした。

稲畑さんとお仕事をすることができ幸せでした。オフィスで冷静沈着に行動するその姿と、ジャズ・クラブで、テナーとバリトン・サックスを器用に持ち替えて演奏を楽しむ姿がいまでも瞼に強く焼きついています。

稲畑武雄さん、いろいろありがとうございました。安らかに神様のみもとに行かれますように…。

* 明日はクリスマス・イヴです。クリスマスにちなんで特別号を発行します。

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2005年08月29日

「水しぶきのなかの青春」―湘南高校との想い出―

数年前の5月、私の所属する日本パブリックリレーションズ協会のパーティで、体格のがっちりした白髪の口髭をたくわえた同年輩の紳士から「イノウエ・エースケさんですか?」と尋ねられました。 突然の「エースケ」…。私を個人的に知っている高校時代の友人や知人の間でしか使われていない、社会に出てほとんど使われることのなかったこの名前の響きに戸惑いと懐かしさを感じながら「そうですが…」と答えました。「ひょっとすると、昔、立川高校の水泳部で泳いでいたA助さんですか?」。当時、都立立川高校の水泳部には同じ学年の男子部員でイノウエ姓を持つそれぞれA、B、Cの三人の「助さん」がいたのです。私を40年前に突如タイムスリップさせてくれた、この日焼けした紳士は中島邦信さんといって、一学年下で神奈川県立湘南高校の水泳部で平泳ぎを得意としていた人だったのです。

私にとって、毎年会場を交互に使い開催される湘南高校との対抗戦は、水泳に青春を捧げた高校時代の想い出の中でも特に忘れがたいものでした。中島さんは、湘南高校水泳部で当時立川高校との水泳の対抗戦のことを懐かしそうに話してくれました。

高校一年(昭和35年)の夏に開催された対抗戦は立川で行われました。そして、二年の夏の対抗戦は湘南のプールでした。男子部員だけの私たちは、この湘南での対抗戦に大きく期待を膨らませていたのです。「湘南に行くとかわいい女子生徒が試合の後に美味しいカレ-ライスを作ってふるまってくれるよ」と先輩諸氏が、いつもカルキの匂いがする立高プールでの練習の合間に、話をしてくれていたからでした。そして純真無垢な少年たちは緊張感と熱いものを身に感じながら湘南高校へのりこみました。

海にほど近い、小高い丘の上にある高校は明るい鮮やかな緑に映え、片側に土手があるプールサイドはとても眩しくみえました。試合後の歓迎食事会は期待どおりエプロン掛けの女子生徒による心づくしのカレーが用意されていました。試合後の腹を空かした選手達にとってそれは最高のもてなしでした。

私の高校時代は水泳そのものでした。しかし社会に出た今でも心の何処かに持ちつづけるある種の不完全燃焼感があります。私は高校二年の夏頃から密かに、64年(大学二年の年)の東京オリンピックに出場する夢を抱いており、できうることならば当時山中毅を始め多くのオリンピック選手を擁していた早稲田大学に入り、よき指導者を得て、そこから出場することが最適と考えていました。

しかし、公立校でのスポーツ環境を考えると心は焦るばかり。この時間との戦いに押されるように、高校二年の三月、先輩の紹介で東伏見にある早大水泳部〈稲泳会〉の合宿所に通うことになりました。シーズン始めの合宿所はランニングをしたり、コース・ロープのない波立つ長水路(50m)プールでめいめいが自分の泳ぎをチェック。

多くのオリンピック・スイマーに囲まれての練習は胸ときめくものでしたが、この合宿所で私の自由形 (クロール)は使い物にならないものとなったのです。当時、世界のクロール泳法は、腕を水中で直線状に素早くかききるアメリカ型ピッチ泳法(当時一過性で流行った泳法)が主流。コーチに言われるまま、私の泳法は日本人には向かないその泳法に改造され泳ぎがガタガタになってしまいました。卒業後暫くして判ったことですが、私のそれは、現在世界で取り入れている泳法、つまり大きなストロークで腕を体の中心から大腿いっぱいまでかき切る泳法だったのです。

その後、高校と大学合宿所との往復や受験期の精神的なストレスで体調を崩し、三年になって急速に水泳への情熱を失ってしまいました。

結局その夏のインターハイの関東大会へは400m個人メドレーで出場しましたが、17歳の私の夢ははかなく潰えてしまいました。

中島さんとの出会いはそんな40年前の記憶をカルキの匂いと共に蘇らせてくれたのです。彼からありがたくも、その年の8月、湘南高校水泳部の70周年の総会に招待され、プールで一緒に競泳するなど心温まる歓迎を受けました。高校時代たった一度の訪問でしたが、なだらかな丘陵にある懐かしい校舎や、そのたたずまいは、水しぶきのなかで青春を分かち合った同輩・諸兄との再会をよりノスタルジックなものにしてくれました。

現在、公共広告機構の常務理事をしている中島さんとは、以来時々お会いしては往時の懐かしい想い出を語り合っています。

個人競技の水泳は、ある意味で孤独で忍耐を必要とするスポーツです。水泳で培われた経験があってこそ、新しい分野であるパブリック・リレーションズの仕事を長年続けることができたのだと感謝しています。  

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2005年08月01日

「千の風」になった高崎望さんを偲んで。
 ~偉大な戦略家との25年

昨年7月24日に亡くなられた高崎望さんの一周忌をむかえ、7月23日土曜日に偲ぶ会がひそやかに開かれました。

高崎絢子夫人から杉並区久我山にあるご自宅に招かれた人たちは、学生時代の友人で日本電信電話公社(NTT)で同期生だった元NTTドコモ社長の大星公二さん、同じく学生時代からの友人でNTTの同期生、現在中央大学教授の浦山重郎さん、神田外語大学名誉教授の古田暁さん、そして私の4人で、生前の高崎さんとのいろいろな思い出を語り合いました。

高崎さんは、とても一途な人でした。東京大学時代に、法学部の全学連のリーダー的役割を果たしたことがある情熱家で、思いついたら昼も夜も関係なく24時間集中して、エネルギッシュに仕事を進めていく、そんな人でした。

物事を組み立てていく上での戦略的思考には目を見張るものがあり、その高い見識に加え、情報収集・分析力、洞察力、緻密なシナリオ作成力、そしてフレキシビリティと危機管理能力など戦略家としての必要な要件をすべて兼ね備えた人といえます。一回り以上も年の離れた私にとっては、良き友人であり、先輩、そして何よりもパブリック・リレーションズの良き理解者でした。
  
駐日大使をしていたエドウィン・ライシャワー(ハーバード大教授)さんとは、高崎さんの母上の代から親戚づきあいをしており、そこから得られた米国知日家の人脈は相当なものでした。また、NTT時代にマサチュセッツ工科大学(MIT)への留学経験がある高崎さんは国際通で、日本と諸外国との間に横たわる問題に精通したきわめてユニークな情報通信の専門家でした。

高崎さんとの最初の出会いは、1980年、高崎さんがNTTから電気通信総合研究所へ出向していた当時、私がアメリカの国内衛星や地域衛星の情報に明るいということで面会を求められたのがきっかけでした。高崎さん、49才、私が36才のときでした。以来、高崎さんとは実に多くのプロジェクトを共にすることになります。

知り合った頃の高崎さんは、後に第三次中曽根政権の外務大臣になる倉成正さんの筆頭ブレーンとして情報通信分野で活躍していました。大型通信衛星を利用した衛星通信の導入の推進役を担っていて、1980年、当時の米国情報通信局局長のジョン・イエーガー氏と共に、電気通信の普及拡大を目指したNGO組織、PTCを設立(太平洋電気通信協議会、本部:ホノルルhttp://www.ptc.org)し副理事長に就任していました。私も高崎さんの勧めでその創生期にPR業界からは異例の参加で、彼と共に、80年代前半、日本の大型通信衛星による衛星通信の導入に向けて仕事をしました。

高崎さんは、通信市場の規制緩和と国際化のうねりの中で、日米折衝の最前線に身を置き、80年代初頭における日本の通信政策の実質的なドラフトを描いた人でもあります。

日米の経済関係が逆転した80年代前半、アメリカは強烈な対日プレッシャーをかけてきました。対日貿易不均衡のなかで激化する日米通信摩擦では、当時、離島や災害対策用の通信衛星(重量:数百kg)しか導入していない日本に対して、アメリカは大型通信衛星の購入を要求してきました。ロビーレベルでの折衝をおこなっていた高崎さんは、難色を示す日本政府に通信市場の開放と大型衛星導入を強く迫った、米国のオルマー商務次官と気魄せまるやり取りをし、もはや高崎さんなしには通信政策は語れないほどになっていきました。

そんな中、高崎さんは、NTTが推進する光ファイバー主体のISDN構想に対し、日本の経済発展を鑑み、大型通信衛星導入(重量:2-4トン)による国内・国際通信ネットワークの必要性を唱え、その実現に奔走したのでした。この頃の高崎さんはもっとも輝いていたといえます。

1982年に起きた日立IBM事件では、彼と親交の深かったIBMの中興の祖、トム・ワトソン・ジュニア(ケネディ時代の駐ソ大使でもあった人)や当時のIBMオペル会長に対し、日本の立場を擁護しつつ適切なアドバイスを行ったり、通信業界の人脈を生かし、翌年の両社和解へ向かう布石を打ちました。通信の世界のネットワーク力は通常のビジネス分野のそれより強固なもので、高崎さんの持つ世界的で豊富な人脈には目を見張るものがありました。

日米半導体摩擦、自動車摩擦のときに、私がアメリカ側のパブリック・リレーションズのコンサルタントとして関わっていたときに多面的なアドバイスをくれたのも高崎さんでした。

考えついたら深夜の2ー3時、明け方の4ー5時、まさに夜討ち朝駆けでよく自宅に電話があったものです。一度、問題にとり組んだら驚異的な集中力でその解決のために考え、奔走する高崎さん、それもこれも今は懐かしく思い出されます。

NTTの後、三菱電機に移籍し、宇宙通信事業部の責任者として進藤貞和会長へのアドバイスや、FSX(次期支援戦闘機)などで三菱グループのワシントンにおける対米ロビーイングに関わるなど、戦略家高崎望は縦横な働きをしました。

その後三菱総研顧問を経て、いくつかの大学で教鞭をとっていましたが、最後の大学は、神田外語大学でした。同大学の異文化コミュニケーション所長、古田暁さんの取りはからいで学生に慕われる名教授として、定年までその指導にあたりました。高崎さんの招きでたびたび授業でパブリック・リレーションズを教えたものです。

一昨年の秋に急に体調を崩し、病院で急性白血病と診断された時の高崎さんの精神的ダメージは相当なものでした。周囲の人もみな驚き、高崎さんの病気を知ったハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルさんや中曽根元首相など近しい方々も心配のあまり、無菌状態の高崎さんの病室を訪ねるほどでした。

亡くなる前の4ヶ月間、私は毎週末、駒沢にある病院にお見舞いにいきました。ちょうど早稲田大学で教鞭をとり始めた頃のことで、大学での授業の話をすると、どんなに辛くてもいつも嬉しそうに聞いてくれました。早稲田大学で教えることが決まったときに真っ先に喜んでくれたのも高崎さんでした。

幼少のころから、高知の桂が浜で太平洋の彼方を望んで立つ坂本竜馬の銅像をみて育った高崎さんは、自由奔放で少年のような心を持った人でした。亡くなる前には、高校まで過ごした郷里にたびたび思いを馳せていました。

後にも先にも、高崎さんのようなグローバル・スケールの戦略家に出会ったことはありません。

そんな高崎さんと25年間親しくお付き合いできたことをとてもしあわせに思います。

山桜が満開だった今年の4月、西多摩霊園で高崎さんの納骨式がありました。太陽が桜の花びらにきらきらと光り、眩いばかりの空のもと、親戚の方々と生前親しかった友人たちが集まりました。

納骨式では、プロテスタントの信者であった高崎さんの所属教会(長老派)の牧師さんが故人への永遠の霊魂のためのお祈りを捧げました。そのときに読み上げてくださった一編の詩「千の風になって」をきいたとき、高崎さんとの四半世紀にわたる数々の想いが一気にこみ上げてきました。

最後に、皆さんとシェアするために、その詩をご紹介したいと思います。




千の風になって
a thousand winds
作者不明 日本語詩 新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています

あの 大きな空を 吹きわたっています




高崎さん、天国で安らかにありますように─。

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2005年07月04日

創立35周年、私をPRの世界へ導いてくれた二人の先駆者

1970年の今日、7月4日に創業した株式会社井之上パブリックリレーションズは満35才を迎えます。

7月4日は、皆さん御存知のアメリカの独立記念日にあたりますが、その独立宣言を起草したトマス=ジェファソン(Thomas Jefferson 1743-1826)こそ、最初に「パブリック・リレーションズ」 という言葉を彼の選挙キャンペーンのなかで使った人と言われています。アメリカで登場・発展したパブリック・リレーションズの会社を奇しくも同じ日に創業したのは、偶然とはいえ何かの導きがあったのでしょうか。

当初は、大学時代に活動した音楽クラブでのプレーイング・マネジャーとしての経験を生かし、漠然と企画会社をイメージして会社をスタートさせましたが、その後PR業界に身をおくことになりました。振り返ってみれば、2人の人物から影響を受けたことがそのきっかけとなったような気がします。

最初の人は、電通PRセンター(現電通パブリックリレーションズ)を創業(1961-)した永田久光さんです。三鷹の実家のお隣さんで、私にとっては「永田の親爺さん」という存在でした。高校時代には事あるごとに声をかけられ「PR」について話をしてくれたことを思い出しますが、PRが何を意味するのか当時の私には全く解りませんでした。しかし、今にして思うと頭のどこか片隅にPRという言葉が残っていたのかもしれません。

その後、永田の親爺さんと再会したのは、1970年に私が会社を設立した年のことでした。大学卒業後、就職先のヤマハを退社し、会社設立のために渋谷区神宮前のマンションビルにオフィスを構えたとき、偶然にもそこで出会いました。電通PRを退社し独立して、同じビルの2階で「ジャパーク」という会社を経営されており、重厚な社長室に時折訪ねたときに、いつもPRについて熱く語っておられたのを思い出します。大柄でがっちりした風貌と、エネルギィッシュな立ち振る舞いは強烈な印象を周囲に与えていましたが、その後間もなく急逝されました。まだ働き盛りの50代、志半で去っていかれたことを思うと残念でなりません。

2人目は、コスモPRを経営されていた佐藤啓一郎さんです。コスモPR(1960-)は日本のPR会社の草分けともいえる会社で、最初の出会いは、私が25歳ぐらいのときでした。関連会社に、大宅映子さんたちが創設した日本インフォメーション・システム(NIS)というシンクタンク会社があり、国内企業を中心に幅広いPR業務をおこなっておられました。

佐藤さんはもともと日系アメリカ人で英語を自在にあやつり、外国メディアとの交流にも積極的で、よく原宿の自宅でホーム・パーティーを開いていました。仲間と誘い合いよくお邪魔したものです。おおらかで、いつも聞き役に徹するダンディな方でした。

当時、佐藤さんの会社が、米国の「LIFE」誌でユージン・スミスという著名カメラマンを使い日立製作所の紹介のための特集を実現させた話は有名でした。PR会社としてとても輝いていました。「PRでこんなことができるのか」と大変感心したのを覚えています。私がPRの世界に入る決心をしたのは丁度この頃だったと思います。50代で急逝した佐藤さんの遺志は、現在、当時まだ小学生だったお嬢さんの久美さんが立派に引き継いでおられます。

お二人とも若くして急逝されましたが、そのことが日本のPR業界の発展に多少なりともブレーキがかかったといっても過言ではありません。またお二人とも実家がお寺だったようで、パブリック・リレーションズ・ビジネスの精神性との関わりの深さと重要性を考えずにはおられません。

長年、パブリック・リレーションズの世界に身を投じている立場から想うことは、現在露呈している日本の社会、政治、経済におけるさまざまな問題は、パブリック・リレーションズなしにその解決はあり得ないということです。

その後私が、なぜこの業界を自身の職業として選び、邁進してきたかを来週お話したいと思います。

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2005年06月13日

個性豊かな人生を自らの選択でかたち作ってきた、宮川秀之さんを囲んで

先週金曜日の夜、イタリアから戻ってきていた宮川秀之さんのために、知人の小河原正己さんの呼びかけで「宮川さんを囲む会」が開かれました。芝の大門にある焼肉屋さんでの会は私にとって半年振りの再会でした。

宮川さんは、世界的なカー・デザイナーであるジウジアーロと共に、イタリア・カーデザインの世界で新しい道を切り拓き、日伊の産業交流に長く貢献された人です。

今回の来日は、宮川さんが経営するスポーツ・マネージメント会社コンパクト社が手がけるイタリアの名門サッカー・チームで今季のセリエ・Aで優勝した「ユベントス」の日本での親善試合開催のためで、2人の息子さんと総勢40名を超えるチームの責任者として東京に滞在されました。

宮川さんと初めてお会したのは昨年12月で、今回の囲む会の世話役で元NHKプロデューサーの小河原正己さんにご紹介いただいたのがきっかけでした。

最初に小河原さんから、「ジウジアーロと長くパートナーを組んできた人」として紹介されたとき、70年代の日本のスーパーカー・ブームを思い出しました。なぜなら、ジウジアーロはその時代日本で大流行した、ランボルギーニ、フェラーリ、マセラッティ、ポルシェなどのスーパーカー・ブームの中心にいた著名なカー・デザイナーだったからです。そしてそのパートナーがなんと日本人の宮川さんであったことを知りとても驚きました。車好きだった私にとって、そんな宮川さんに個人的に興味を持ちました。

宮川さんの歩んだ人生は大変興味深いもので、早稲田大学在学中の1960年、中学時代から好きだったオートバイで世界一周旅行へ飛び出し、途中立ち寄ったイタリア、トリノでマリーザさんという女性と恋に落ち、そのままイタリアに住みついてしまいました。

運命的な出会いをしたマリーザさんとの結婚後、1965年にカー・デザイナーであったジウジアーロと知り合い意気投合。宮川さんは、1967年にはイタルデザイン社の前身となるイタル・スタイリング社を設立し、それ以来、ランボルギーニ、マセラーティやアルファロメオ、また日本車では当時話題を呼んだいすゞ117クーペなど数々の名車を世に出しました。

その後、前にも紹介したように、2人の息子さんと一緒にスポーツ選手を中心としたマネージメント会社コンパクト社を設立し、サッカー・チームや選手のマネージメントを行っています。今回来日のユベントスやキャプテンのデル・ピエロ、F1ドライバーのジャン・アレジなどのマネージメントを、総勢90人を超える社員が手がけています。

福祉活動にも積極的で、2003年の暮れに急逝された奥様のマリーザさんとともに、カトリック精神にもとづき、愛のある大家族をめざして、数々のすばらしい活動をされてきました。4人の実のお子供さんの他に、韓国やインドなどから4人の子どもを養子、里子として受入れ育て上げたことや、ザンビアのハンセン病患者の子供4人を里子にして養育費を送ることなどもその考えに基づくものです。

1994年からは、毎年、日本の不登校やひきこもりの子供たちを自分たちの農園に40日間預かり、自然の中で、仲間たちと共に働き、学び、生きる喜びを知ることで個々の自立を促すプログラム「ニュー・スタート・プロジェクト」を提供していました。

20年前、トスカーナの10万坪の水辺のある土地に、ワイン農園(ブリケッラ農園)を開き、有機農法による最高品質のワイン作りにも力を注いでおられます。一昨年の秋から娘さんの志づ子さんが日本に常駐し、自分たちが作ったイタリア・ワインの日本での紹介に努めています。

宮川さんの家族の間で一番大切にしているのは、お互いのコミュニケーション。毎日一度は家族同士で電話しあい、互いの所在や状態を確認する。問題が起こったときにはお互いが率直に対話して結論をだす。このようなオープンで双方向のコミュニケーションを通して、家族の絆がより深まっていくのだといいます。

この信頼関係が基盤にあるからこそ、「古い世代の親が自分の考えを子に押し付けるのではなく、新しい世代の子供が自分なりのアンテナで考え、最終的に自己責任により自らの行動をとる」といった人間教育が成り立つのかもしれません。

こうした宮川さんの、個としての人間の素晴らしさを深く理解し、個の中に既にある豊かな人間性を引き出すことに情熱を持って取り組む姿勢に深く感銘を覚えます。

宮川さんの生き方には共感する部分が多くあります。私が、現在大学で教鞭をとっているのも、健全な社会の発展には、個がしっかりしたバックボーンとパワーを持つことが極めて重要ですし、そのための教育が不可欠だと信じているからです。

宮川さんのこれまでの長い人生をとおして出来上がった確固としたモットーは、「プロセスを楽しむ(process-enjoying)こと」。つまり、「人生は山あり谷あり。けれども、志を持って臨めば、深い谷にいるときにもそれを受け入れることでプロセスそのものを楽しむことができるようになる。そしていつか必ず山に登ることができる」。

これからも、宮川ファミリーの日本とイタリアを繋ぐ橋渡し役としての活躍を楽しみにしています。

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