2008年08月16日
夏、癒しの空間「弓削島」

こんにちは井之上喬です。
お盆も終わり、朝晩ほんのすこし涼しさが感じられるようになりました。
皆さんいかがお過ごしですか?
今年もお盆休みを利用して母のふる里、弓削島(愛媛県上島町)を訪問しました。瀬戸内海に浮かぶこの島は、面積にして8,95㎢、島を一周しても18㎞という、人口4,000人足らずの小さくてかわいらしい島(写真上:弓削ロッジから松原海岸と石山を望む)。この10数年間、毎年訪れる私にとっては帰郷とおなじ。
今年は尾道から高速船を利用せず、1時間に1本の割合で「のぞみ」が停車する福山駅からバスで1時間ほどすると終点の因島の土生港。そこから小型フェリー「青丸」で15分。太陽に光り輝く弓削島に到着します。「瀬戸内しまなみ海道」(広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ)からはずれた弓削島には昔ながらの自然が沢山あります。
以前にも述べましたが、パブリック・リレーションズ(PR)の仕事は、インター・メディエイターとしての役割を果たし、WIN-WINを実現させる仕事。弓削島の自然の中で培われた開放的でポジティブ気質は現在の仕事に大いに生かされていると思います。
■都会で忘れられた「ぬくもり」
今年も94歳の母の妹やいとこたちが温かく迎えてくれました。昨年96歳で亡くなった叔父の姿が見られないのは残念でしたが、その子供たちにも何十年ぶりかで会うことができました。叔父のお墓は、道鏡禅師(弓削道鏡)を祀っている島の中央にある「海江山自性寺」にあり、海を見渡せる白い砂と松の木のすぐ下にある明るい場所。

戦後、満州の大連から引き揚げてきた私たち家族は、役人をしていた父の赴任先が決まるまでの間、何ヵ月かを弓削の母の実家に身を寄せていたことがあります。以来、高校の途中まで毎年夏には弓削島に戻っていました。今年もいとこ達やその家族、子供たちと松原海水浴場で泳いだり、隣島の佐島(さしま)(写真右:プライベート・ビーチ風の砂浜)で釣りをしたりして4日間をのんびり満喫。
弓削には小さい頃からの想い出がたくさん詰まっています。毎年夏に尾道祭りで行われた海上花火大会もその中の一つ。小学校5-6年生の頃、当時因島にあった日立造船に勤めていた叔父(叔母の夫)が、親戚のために貸し切った小型遊覧船の中で用意された氷で冷やした空の酒樽に入っているビールを5,6本ひとりで飲み、大人が花火を楽しむのをよそに、兄弟やいとこ達と存分に騒ぎ楽しんだこと。また、弓削島の反対側にあった小さな入り江の段々畑で、スイカを好きなだけ採りリヤカーに乗せて運び、叔母の家の井戸で冷やした後、みんなで舌鼓をうったことなどです。
いまは、大型タンカーを建造していた因島の日立造船も立ち退き、弓削小学校も1学年で200名近くいた児童が20名に満たない数に減少し、過疎化が進んでいます。
そんな弓削島にも最近新しい動きを感じます。それは幼い子供をつれた家族が弓削に帰ってきていることです。休みを利用して新しい配偶者とともにこの島に連れ戻っていることです。弓削に生まれ育った祖父母が都会に出て子供をもうけ、さらにかれらの孫が弓削に戻ってきているといった感じです。
■注目を浴びる弓削商船
弓削には多くの外洋航路の船長や一等機関士を輩出した弓削商船(国立弓削商船高等専門学校)があります。最近、海運業界の環境の変化に伴い船乗り志願者は激減。電子機械工学や情報工学などのIT系の学生が主流になりつつあるようです。
そんな弓削商船に関する記事が偶然、日経ビジネス8月18日発売号に掲載されています。日本のこれまでの「6・3・3・4制」の枠組みから離れた高等専門学校に焦点を当てた特集。「鉄は熱いうちに打て‐12歳からの英才教育」(36-37頁)の中で全国高専(61校)対象に毎年開催されている「プログラミングコンテスト(プロコン)」で昨年も優勝した同校が開発したプログラムに「マイクロソフトが熱視線」と弓削商船のソフトウエア技術開発力について紹介されています。弓削の持つ豊かな自然環境に創造性が育まれ、こうした成果が生まれているのかも知れません。
行政改革の流れの中で将来、全国5か所にある高等商船専門学校の統廃合で、広島商船、大島商船、弓削商船の3校が1校に統合される話を聞き、弓削商船の将来が心配されています。日経ビジネスの記事は、こうした心配を吹き飛ばしてくれる明るいニュースでした。
今回島で初めて、2人のフランス人観光客に会いました。瀬戸内海に浮かぶ小さな島、弓削島。弓削島やその周辺の島々には史跡も多くみられます。人は瀬戸内海が抱合する、多彩な歴史と文化に魅せられて弓削島に惹きつけられるのでしょうか。
94歳の叔母は最近、歩くときに杖を使うようになりました。あまりに暑いので桟橋での見送りをひかえてもらい彼女の自宅で別れを惜しみました。「来年まで元気にしていてください。また戻ってきます」。桟橋から遠ざかる船から、遠方に見える叔母の自宅へ向かって最後の別れを惜しみました。
2008年08月09日
私の心に残る本 18
白銀竜吉法師の『1000人になった人類』

こんにちは井之上喬です。
北京オリンピックがいよいよ開幕。
皆さんいかがお過ごしですか?
8月は毎年、広島(8月6日)、長崎(8月9日)の原爆の日に続き、15日の終戦記念日とお盆休み。「戦争と平和」そして「生と死」がテーマの月です。戦争で犠牲になった死者に思いをはせながらひと夏を過ごすことも、私たちにとって「命」や「人生」を考える上で大切なことのように思えます。
今回は、白銀竜吉法師著『1000人になった人類』(さんが出版:2005年)をご紹介します。愛・地球博「アースデイ」第1回環境大賞受賞作品で、人類の愚かさで引き起こした核戦争によって、わずかに生き残った人々のお話です。
「人類はたった1000人になっていました。あんなにたくさんいた人類が、わずか1000人になってしまいました...」で始まる同書は、大きめの活字でレイアウトされ、半分が著者自身の挿絵で構成された絵本のようなショートストーリー。3年前の出版当時とくらべ地球環境がさらに悪化し、核戦争の脅威が増すいまこそ読むのにふさわしい本といえます。皆さんにより深く味わっていただくために、今回は解説を加えず、本文を抜粋したものをそのままご紹介します。
◆
人類はたった1000人になってしまいました。
あんなにたくさんいた人類が、わずか1000人になってしまいました。
100万年かけて70億人にまで増えた人類が、たった1年で
1000人になってしまいました。
人類は核戦争でほとんど死んでしまいました。
お金持ちも貧しい人も、ほとんど死んでしまいました。
人間は核爆弾が良くないことを知っていたのに行きがかりじょう仕方なく使ってしまいました。
人類は最初2000人だけ生き残りました。
地球のほとんどの地域は放射能で住めません。
2000人のうち1000人が放射能による白血病で死にました。
人類はたった1000人になっていました。
残った1000人は放射能の少ない小さな島に移住しました。
生き残った1000人のうち、本当に健康な人はいませんでした。
顔をやけどした人がいました。
顔だけでなく全身にちかいくらい、やけどをした人がいました。
全身の痛みで、体の震えが止まらない人がたくさんいました。
ほとんどの人の心が病んでいました。
ほとんどの人の心の中は絶望と憎しみでいっぱいでした。
みんな空気も水もほとんど汚染されている気がしました。
水を飲むこと空気を吸うことも怖い、生き残った人類でした。
全員が死に向かっている人類は、本当の幸せとは何かを真剣に考えました。
一年の月日がたつと島では毎月子供が生まれました。
地球が汚染されているのに子供は生まれます。
身体に障害を持った子供たちをケアする医療設備はありません。
身体に障害を持った子供たちは死んでゆきます。
みんな思いました。
なぜ地球が破壊される前に、医療設備がなくて困っていた人々を
助けなかったのだろう!
みんな後悔で苦しみました。
みんなで話し合って安全な場所を探しました。
残された人々は苦難に立ち向かうために、
みんなが一つになろうとしていました。
みんな森の中で安心して暮らすことができるようになると
毎晩、議論するようになりました。
みんな、なぜ世界が核戦争になってしまったのか話し合いました。
人類は石油を奪い合うために戦争をしました。
何度もしました。
石油が出る国はいろいろな理由をつけられて、
順番に戦争に巻き込まれてゆきました。
お金持ちは、お金持ちでいるために石油を奪い続ける必要がありました。
石油が欲しいために戦争を起こし
石油を支配するために石油が出る国を占領し
反発する人々を殺し続けました。
何も悪いことをしていないのに、巻き添えでたくさんの人々が死にました。
家族を殺された人々は殺した人を憎み続けます。
人は人を憎み続けると不健康になります。
憎まれる人のほうは恐怖を感じます。
こうした憎しみと恐怖が、世界大戦争を起こしました。
そうして地球のいたるところで核爆弾が使われました。
絶望している老人が最後に言いました。「戦争の最大の原因は、人間が生きてゆくうえでの
恐怖なんじゃよ!恐怖が争いをつくるんじゃよ!」
経験豊かな老人たちは口をそろえていいました。
「今というときを助け合うことじゃよ!困っている人がいたらみんなで力を合わせて助け
てあげることがみんなから恐怖をなくすことになるんじゃ!」
子供たちは経験豊かな老人たちの話を聞いて、一つのことに気がつきました。
そして、子供たちは素晴らしい行動を始めました。
子供たちみんなが始めました。
ちいさな子供たちも始めました。
子供たちに感動して、大人も始めるようになりました。
大人たちもみんな始めました。
何かが変わり始めました。
人類が島に来てから5年の月日がたちました。
男たちは一生懸命畑仕事をしていました。
突然、若い青年が叫びました。
「みんなこれを見てくれ!」
彼らが見つけたものはたくさんのミミズでした。
「おお~っ!これはすごいぞ!ミミズがこんなにいれば土をもっと豊かにしてくれるぞ!」
それから5年の月日がたちました。
その島の岩場がいつの間にか草原になっていました。
草原にはいろいろな動物がいました。
大人たちはそれぞれ自分の得意なことを一生懸命みんなのためにやりました。
大人たちは他人の話をよく聞くようになっていました。
みんながひとの悩みをわがことのようにおもうようになりました。
大人たちはみんな一つの素晴らしい考え方に気がついていたのでした。
それは常に「与えることを優先する」という考えでした。
みんな、人が喜ぶことをいつも考えるようになっていました。
島の中で何かが確かに変わり始めたのです。
人間がこの「新しい考え方」に気づいたときから
何かとてつもない大きな変化が始まり出したのでした。
与えることを優先する考え方が、生き残った全人類の考え方になりました。
与えることを優先すれば、すべての人類が豊かに暮らせる!
すべての人類がそう思えた瞬間!
人類の意識が進化したのでした。
それは自分を優先するのではなく
自分だけを守ることを考えるのではなく
他の人に対して、まず与えることを考える生き方でした。
そして、それがみんなに「思えば叶う!」ということを
強く信じさせてくれるようになりました。
みんな思えば叶うと本当に思い始めていました。
思えば叶うとみんなが本当に信じるようになりました。
すべての人類が祈りました。
「すべての人類が幸せになりますように!」
それが朝になった瞬間!
ほとんど波のない穏やかな、放射能で汚染されたはずの海に
奇跡がおこっている瞬間でした。
そこには信じられない光景が神によって描かれているようでした。
それはイルカでした。
「海が回復しだしているぞ~!」
若い男が大声で叫びました。
大人たちの声に振り返った子供たちが言いました。
子供たちのみんなが静かにしみじみ言いました。
「わぁ~!なんて奇麗なんだろう!」
子供たちはみんなその美しさに見惚れて立ちすくんでいました。
森が光っていました。
島の森が大きくなっていました。
森の木々の一本一本が輝いていました。
朝日を吸収している森の姿は、まるで一つの生命のようでした。
それはまるで森全体が虹のかたまりのように七色に輝いていました。
それは新しく生まれ変わった人類の希望の虹のようでした。
それは地球が自らの偉大な浄化と蘇生の力を、人類に教えてくれた瞬間でした。
2008年07月26日
私の心に残る本 17
『世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃』 ~アメリカは北朝鮮よりも危険な国
戦争は絶対に起こすべきではない。これはこれまでの人生の中で私が学んで得た結論であり願いです。
2003年3月、米国と有志連合によるイラク侵攻が開始。わずか6週間後、空母甲板上でのブッシュ大統領による勝利(任務完了)宣言がなされました。あれから5年、終わることのない戦争は当時よりも激しさを増し、多くの民間人や兵士の命を奪っています。
本書『世界を不幸にするアメリカの戦争経済-イラク戦費3兆ドルの衝撃(原題:The Three Trillion Dollar War- The True Cost of the Iraq Conflict)』(楡井 浩一訳、2008:徳間書店)は、戦争がいかに無駄で、空しく、すべてを破壊するものであるかを平易な表現で、具体的な数字を提示し読者に強く訴えています。
■日本の国家予算の4倍弱、ベトナム戦費をも上回る驚愕な数字
著者は2001年、ノーベル賞経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツとリンダ・ビルムズ元商務次官補。スティグリッツは、1943年米国生まれ。エール、オックスフォード、プリンストン、スタンフォードなどで教鞭をとり、93年クリントン政権に参画。97年から2000年まで、世界銀行の上級副総裁兼チーフエコノミストをつとめ、現在はコロンビア大学教授。
8章で構成されている本書は、「ブッシュが3兆ドルをどぶに捨てた」(1章)、「兵士たちの犠牲と医療にかかる真のコスト」(3章)、「社会にのしかかる戦争のコスト」(4章)、「原油高によって痛めつけられるアメリカ」(5章)、「グローバル経済への衝撃」「泥沼からの脱出作戦」(6章、7章)、そして「アメリカの過ちから学ぶ」(8章)と、その章立ては読者のこころをはやします。
著者は、「ブッシュ政権は戦争による利益を見誤った。ブッシュ大統領とその顧問らは、迅速で費用のかからない戦いを予測していた。ところが、それはだれにも想像できなかったほど高くつく戦争になった。」と開戦直前のラムズフェルド長官たちが見積もった戦争コストを提示。そのコストは、日本など他の国々の負担も含めわずか500-600億ドルであったことや国際開発庁のナツィオス長官のイラク再建に要する費用がわずか17億ドルと見積もられていたことなど、ブッシュ政権の予測の甘さを厳しく指弾しています。
そして実際のコストは3兆ドルになると莫大な数字を示したのです。そして米国の直接的な軍事活動のコスト(負傷した退役軍人の医療費などの長期的コストは含まない)は12年続いたベトナム戦争のコストをすでに超え(1.5倍)、朝鮮戦争の2倍以上に達していると指摘。また湾岸戦争のほぼ10倍、第1次世界大戦の2倍としています。一方、現在、イラク、アフガニスタンに費やす1か月の“回転資金”は160億ドル。この数字は国連の年間予算、あるいは米国13州分の年間予算に等しいと分析しています。
3兆ドルといえば300兆円超もの巨額。実に日本の1年の国家予算(2008年度一般会計)83兆円の4倍弱。つまり毎年、日本の国家予算の約80%をイラク戦争に投じていることになります。
なぜ米国政府のコスト見積もりに大きな乖離が生じているのかについて、著者は、イラク戦争のコストで国防総省の予算で補えない分は、社会保障局や労働省など他の公共部門へ移すことで操作され、巧妙な経費隠しが行なわれていると指摘しています。
またアメリカ政府の会計報告のやりかたについては、戦争のコストをさらにあいまいなものにしているとし、「政府の帳簿つけに用いる標準的な方法は“現金主義“会計を基本とする。」と米国政府が現金主義をとっていることを明らかにしています。その結果、実際の支出は記録されても、戦争の場合に生じる要素である、将来の医療や障害補償コストなどを含む将来的債務は無視。その時点での支出を低く見せることができると語っています。このため「アメリカでは食料雑貨店より大きい会社はすべて、“発生主義”会計を用いるよう法律で定められている。」としています。「このシステムでは、将来実際につかったときにではなく、将来かかるはずのコストが現時点でしめされる。現金主義会計と発生主義会計の不一致は、常に問題の種」と国防総省の不正な会計実務を使っての経常予算からのイラク戦争への支出の隠蔽を指摘しています。
■1兆ドルで何ができるのか?
本書は、世界における米国の評判が、史上最低のレベルまで落ち込み、米国が市民権と民主主義の砦と見なされなくなったという最も憂慮すべき事態にあると指摘。「“民主主義のため”に仕掛けられたイラク戦争は、民主主義の名に泥を塗った。この結果、ドイツ人の65 パーセント、スペイン人の66パーセント、ブラジル人の67パーセントが、アメリカ的な民主主義の解釈に嫌悪感を示した。」そして世界中の大多数の人びとにとってイラク占領中の米国は世界平和に対する脅威度でイランを凌駕していると、ピュー研究所の調査結果を紹介しています。この調査では対象となったすべての国で、世界平和に対するアメリカの脅威度は、北朝鮮の脅威度よりも高いと認識されていることを明らかにしたのです。
著者は、戦争につぎ込んだ3兆ドルは、他の目的で使えばとてつもない効果を生み出したはずと主張。3分の1の、1兆ドルで「...800万戸の住宅を建設でき、1,500万人の公立学校教師を採用でき、1億2,000万人の子どもを1年間健康保険に入れるか、4,300万人の学生を奨学金で4年間公立大学に通わせることができたかもしれない。」と試算。
著者はまた、このお金を教育、科学技術、学術研究などに投資していれば、もっと大きな経済成長や将来の課題に対処でき、代替エネルギー技術の開発などで環境問題の解決や石油依存度の低減も可能になっていたとも論じています。
イラク戦争で戦闘に参加している米軍人の被害も甚大。VA(退役軍人省)の病院や診療所で医療を求めるイラクおよびアフガニスタンからの帰還兵も2003年の13,822人から2008年の263,000人と急増して社会問題化しているとしています。
最後の8章では、「そしてアメリカの過ちから学ぶ」は、「イラクにおける今回の失敗は、ベトナムの敗戦とよく似た懲罰効果をもたらすだろう。」とし、将来おなじような紛争が発生したときの米国の関与に対する躊躇の姿勢を予測。泥沼化の可能性のある紛争に巻き込まれるさいには、より慎重な手続きを踏むことの必要性を説いています。そして著者は、「未来のための18の改革案」をあげています。その半数が、情報プロセスと意思決定プロセス(予算編成プロセスを含む)の改善に関するもので、残り半数は、帰還兵の処遇に関するもの。
著者は、「最良のシナリオどおりに事が進んでも、これからの10年間のイラク戦費は莫大な額にのぼる」と予測。「アメリカはイラクにたいして国土の安全を長期保障しており(中略)約束履行にアメリカ軍は半永久的にイラクに駐留しつづける必要がある」としています。そして、「2003年にくだした拙速な決断は、アメリカを長きにわたって縛りつけており、このつけは来るべき未来の世代が払うことになる。」と将来にわたって問題を引きずって行くと明言しています。
本書は米国の横暴を告発するものの、米国の世界での役割の重要性を説いています。「なぜなら、現代の世界が直面する全地球規模の諸問題を解決するとき、アメリカのリーダーシップは重要な役割を果たしうるからだ。」
先日、ミネソタにいるアメリカ人の友人からメールが回覧されてきました。その内容は、米国がこれまでイラクでいかに貢献(雇用、教育、治安、医療など)してきたかをそれぞれ数字で示したものでした。米国のメディアがとりあげていないとして、知り合いから知り合いへと回覧されたものでした。
戦争はいつも末端の人たちが犠牲になります。本書と友人からのメールに目を通しながら、覚醒されたリーダーの不在がいかに米国、そして世界を混乱に陥れているか痛感しました。パブリック・リレーションズ(PR)の実務家は、混乱した世界にあって、よりよい社会の実現のために、所属する組織体の職務を通して、強い意思で取り組んでいかなければなりません。
2008年05月17日
私の心に残る本 16 『いつまでもデブと思うなよ』
~レコーディング・ダイエットとは?
一年で50キロ減量した。117キロから67キロへ体重を落とした。作者の体験的ダイエット本がいま注目を浴びつつあります。レコーディング・ダイエットというダイエット法で、食事のたびに何を食べたのかひたすらメモ帳に記録すればOKというものです。
著者は大阪生まれで作家・評論家の岡田斗司夫さん(48才)。『いつまでもデブと思うなよ』(2007:新潮新書)は、岡田さんのダイエットの技術と思考法によって実践され、成功したことをこの本にまとめています。このダイエット法にいま関心が高まっています。
■「見た目主義社会」の到来
岡田さんは、人間は見た目が大事といっています。現代が見た目・印象主義社会であるから、人はまず見た目で判断される。だから「キャラ付け」もまず見た目が優先されるとしています。 私たちが知らないうちに日本社会は大きく変革しており、その最大の変化は「見た目・印象」を重視する「見た目主義社会」への移行。これらは表層的な変化ではなく、ビジネスや経済の最大要因にもなりうる変化と持論を展開しています。「つい30年前までは学歴主義社会」だったものが最近は見た目主義が勢力を増し、これに取って代わろうとしているといっています。
著者は、自身がダイエットを始めるとき、やせる必要性を考えて実行を開始したといいます。初対面の時などは見た印象で決定される。読者に「太っていると損をする」という現実認識が重要となると訴えています。
この考えは、私がよく大学の授業「パブリック・リレーションズ論」で学生に教える時に引き合いに出す、「メラビアンの法則」と共通しているものがあるように思います。メラビアンの法則は、米国のアルバート・メラビアンが提唱したもので、プレゼンテーションの評価は内容よりも見た目と耳からの印象で決まるとし、55%が表情、服装、髪型などの見た目(ビジュアル)で、38%が声の質、話し方など、最後のプレゼンの内容は僅かに7%に過ぎません。
もちろん著者がやせようと考えたのは、見た目を重視するだけでなく肥満によっていろいろなものが窮屈になりお金もかかるなどの理由から。彼は、見た目の印象を形作るものは3層に分類されるといっています。第一層は肉体そのもの。第二層はファッション。第三層は言動。このうち最初の肉体は、体格と体型の二つに別れ、最初の体格は改造不可能なもの(身長、肩幅、手足の長さなど骨格に由来するもので改造不可能なもの)。二つ目の体型は、改造が可能なもの(ウエスト、腹回り、太ももの太さなど筋肉や贅肉に由来するもの)としています。彼はこの中で体型の改良のためには、ダイエットが有効であるといって、自らの体験を読者に薦めています。
一年で50キロの減量に究極の技術と思考法で成功した岡田さんのモットーは、「楽しいダイエットでないと続かない」。ダイエットの最中には食事や飲み物にいつも気を使い、神経をすり減らしストレスを抱え込むことが多くみられます。「好きなことを我慢するのに、精神力や意思力は必要ない。ダイエット製品を買い揃える経済力も必要ない。仕事で疲れきった体をジムに運んだり、毎日トレーニングしなければならない時間も作らなくていい」つまり、「レコーディング・ダイエットはメモとペンだけ」とこのダイエット法が極めて簡単なことを強調しています。
■ダイエットのための6つのフェーズ
「レコーディング・ダイエットとは、記録することによるダイエットであり、記録するという行為の積み重ねによって自分の行動管理を目的とする」もの。そしてレコーディング・ダイエットを飛行機の一連の運動にたとえて、1)が助走、2)が離陸、3)が上昇、続いて4)巡航、5)再加速、6)軌道到達、と6つのフェーズを経てダイエットが完了。後は月面着陸の気分としています。
著者は、このダイエット法について、助走では、1)体重を毎日量る、2)口に入れたものをすべてメモする、3)我慢しない、今まで食べたいものは食べて、ひたすらメモすることにより自分の行動を客観化することが「やせる」結果をもたらすといっています。この期間は、対策を練るための期間で、楽しい旅行プランを練る期間。
次の離陸期間では、1)体重体脂肪率を毎日計ることで、2)口に入れたものすべてメモしカロリーの計算をする。3)は、どうやれば総カロリー数を減らせるか想像してみる。でも我慢しない。早い人で2週間、最長でも2ヶ月あれば「自分の食事生活パターン」が判ってくるようになる。自分で生活パターンが判ってきたら、助走期間が終わり次の離陸に入ります。助走から離陸へのタイミングは自分できめます。2)のカロリー計算では最近はコンビニやファーストフード、インターネットのサイトから簡単に入手できるはず。この期間は1-2週間、気の短い人は三日ほどで次の上昇段階に入ることが可能。
カロリー計算がなんとなくこなせるようになったら、第3段階の上昇に入ります。このあたりから体重変化が起こり、体が軽くなり、ダイエットが楽しくなるそうです。具体的には、「一日あたりのカロリー摂取量を一定範囲内に抑える」ことを目指す。摂取カロリーは「自分の基礎代謝量ぎりぎり」あたりが最も効率よくやせられる。基礎代謝量とは、呼吸や体温調整など生命を維持するために消費されるエネルギー。眠っている間でも消費されるエネルギーで、人間が生きていくうえで必ず消費されるエネルギーをさしています。もちろん男性、女性、年齢などによって違うようで、ちなみに、50-69歳男性は1,350Kcal。作者は1,500Kcalでこの数字が目安。基礎代謝量より下に設定することはいけないようです。上昇のポイントは4つあり、1)体重、体脂肪率を毎日計り口に入れたものをすべてメモしカロリー計算する。2)摂取カロリーは個人の基礎代謝量にあわせて決定しそれを守ります。3)は食べ過ぎても後悔や反省はせず、翌日のフォローで切り抜ける。4)毎日水を2リットル飲む。レコーディング・ダイエットの場合は食べすぎより記録していないことの方が問題のようです。とにもかくにも記録することが重要。
次は巡航です。毎日記録をつけて規定のカロリー数に抑えそれを無理せず継続できるようになったらあなたはもう巡航段階に突入したことになります。カロリー制限を開始して(上昇)75日あたりから体質は大きく変化します。体重は減るが皮下脂肪を燃やし始めた体は、恒常性維持(ホメオスタシス)のために、やせようとする意思に反して体が妨害してきます。精神的にも不安定になり気力が衰え、気分も落ち込みがちになります。この飢餓感と落ち込みは1-2週間続くが、この段階を通り越せば、この「飢餓感と不安」はうそみたいになくなるようです。体がついに抵抗をやめ、やせることを認めるようになります。これが75日目の体質変化です。ポイントは、脈動的に変化する。体重、体脂肪重量、サイズの3つが2週間以上にわたって変化がない場合(停滞期)は豆乳や野菜ジュースなど他のダイエット法(ウオーキングなど)と併用します。
この時期も克服し、周囲の人にどうやってやせたのか聞かれるようになり、カロリー計算が反射的にできるようになったら、再加速段階に入っているということ。一番わかりやすい転機は自分の好物に明らかな変化が見られる時です。もう少し食べたいと思って箸を置きあとで「ちょうど満腹」になるのが理想的。胃袋が発する「あと少し」という細かいサインに注意してそこで食事をやめることがすすめられています。つまり自分の体の声を聞くということ。食欲には「頭だけが食べたがるもの(欲望)」と、「体が食べたがるもの(欲求)」の2つがあり、自身が発する何々が食べたいという欲求のサインを聞くようにすることが肝要。
体の欲求がどんどん自覚できるようになると最終段階の軌道到達の準備ができたことになるとしています。計器飛行をやめて有視界飛行に移る。すなわち「レコーディングをやめてカロリー制限もしないで食事をする」という段階。そのためには、再加速段階で意識した空腹満腹感を更に強く意識する。「軌道到達」に達するということは「必要な分だけ食べたら努力なしに食べるのをやめられる」という状態になっているということのようです。
その結果は月面着陸の体験。重力6分の1で、夢のような気持ちが味わえるというわけです。
岡田さんのこのダイエット法は、日ごろ多忙なPRパーソンにとってはあり得ないような話です。早速、数日前から始めることにしました。皆さんもいかがですか?
2008年04月11日
心に残る本 15 大川従道の『非まじめ牧師のジョーク集』

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。
笑いは動物のなかで人間にしかできない行為です。 先日、笑いに焦点を当てて書かれた本を戴きました。それは『非まじめ牧師のジョーク集』(2007年、朝日新聞社)。手にとってみると、これがなかなか面白い。ページをめくる度に「クスッ」と笑いがこぼれてくるのです。
しかも各ストーリーの中で物事の核心がみごとに突かれています。中にはドイツやアメリカ、イギリスなど様々な民族性を取り上げたジョークもあります。 本書は、読み進むうちに世界の常識も勉強できるコンパクトで役に立つ本です。
■「恵みのツケと罪のツケ」
本書の著者は、会員1000名以上を擁する大和カルバリーチャペルの大川従道牧師。大川牧師は、説教の冒頭で、必ずといっていい程ジョークを連発。この本には彼の素直な気持ちで表現されたジョークが63の話にまとめられています。
大川牧師は、どうしてここまで笑いを大切にするのでしょう。初めて集った人でも人間の壁を越えてひとつになることができる。大川牧師は、笑いにはそんな力があるからだといいます。どんな状況にある人でも笑いで救われる。これは本当のこと。全てのこだわりから解き放たれた瞬間、人は笑います。人間的な枠組みを超えた印しが笑いそのものなのです。
面白かったのは、「孫もマゴマゴ」という箇所。「恵みのツケと罪のツケ」のたとえ話です。中近東のある場所に「お代は、あなたのお孫さんにツケられます」と張り紙をしたバーがありました。そこに一人の男が訪れ、心行くまでお酒を楽しみます。
バーを出るときその男は、「代金は孫にツケといてくれ」といいます。するとバーの店主は「100ドル戴きます」と来ました。そのわけを尋ねると、「ええ、今夜の代金はお孫さんに付けさせていただきましたが、これはあなたの祖父様の分です」とやりかえされたというジョークです。
旧約聖書では、「私を愛し、私の戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至る。しかし、罪は父の罪の子に報いて、3、4代に及ぼす(出エジプト記 20:5-6)」と記されています。
このように大川牧師は、軽やかな笑いを挟みながら、私たちに人生の正しい道とは何かを教えてくれています。
■「互いの違いを楽しみなさい」
「理想的なヨーロッパ人」も思わず笑いがこぼれました。これは欧州のそれぞれの国民性をジョークにしたもの。「ドイツ人のようにユーモアがあり、イギリス人のように料理が上手で、フランス人のように運転が静かで、イタリア人のように規律正しく、….」と永遠に続くジョークです。
これはお互いのイメージを全て裏返しに表現したジョーク。このジョークは互いを笑い合うためのもの。 大川牧師は、「他人を茶化すときには自分も笑いの対象にすべき」として、お互いを笑う時にはまずは自らを笑う事から始めようといっています。
私たちがパブリック・リレーションズの活動を通して様々な人とコミュニケーションをする場合でも、ジョークが弛緩剤になることはよくあること。大笑いで互いを笑い合えたら、双方の相違点からくる違和感など吹き飛んでしまうのは確かです。大川牧師の「互いの違いを楽しみなさい」とする言葉を心に留めておき、どんな時でもジョークが言える余裕を持ちたいものです。
このように大川牧師は、時にはおやじ風のジョークも交えながら、本当に大切なものは何かを私たちに語りかけています。150ページ足らずの薄い本ですが、春の温かい日差しを浴びながら、この本をゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。あなたの顔もいつの間にか笑顔になっていることでしょう。
2008年03月07日
私の心に残る本 14 『頭にちょっと風穴を』

こんにちは、井之上喬です。3月、端午の節句も終り一段と春らしい陽気となりました。
皆さん、いかがお過ごしですか。
「大きなときの流れの中で自分はどのあたりを歩いているのか」。混沌を極めたこの世界で、自分の立ち位置が見えている人は数少ないのではないかと思います。
そのヒントをくれるのが国際ジャーナリストである廣淵升彦さんの『頭にちょっと風穴を―洗練された日本人になるために』(2008年、新潮社)という本です。
■「カダフィが拭った汗」
廣淵升彦さんは、テレビ朝日ニューヨーク、ロンドン両支局の初代支局長、ニュースキャスター、報道制作部長、国際局国際セミナー専任局長等を歴任した後、現在は私大の教授などを務める傍ら、精力的に執筆活動を行なっています。
「日常と世界を結び、世界を日常の中に運び込んでくる」ことを心がけて仕事をしてきたという廣淵さん。その彼が本書の中で「世界のタテ・ヨコ」を多くの実例を交えながらユーモアいっぱいに語っています。
印象に残ったのは「カダフィが拭った汗」。1981年4月廣淵さんはリビアの宰相、カダフィ大佐とのインタビューを実現。廣淵さんは実際に会う前のカダフィのイメージを、「弱冠27歳で腐敗した国王を放逐して政権を握って以来、冷酷非情に数々の粛清を行い、暗殺を逃れてきたカリスマ」と表現しています。
しかし廣淵さんが彼に実際にインタビューしたとき、カダフィの思いがけない立ち振る舞いを見たといいます。それは、彼の通訳を務めていた現地の老教授が、遠慮のない廣淵さんの質問に対して狼狽し額に大汗をかいていた有様をみて、老教授の汗を、さりげなく自然に拭ったのを目撃。廣淵さんはこの瞬間、カダフィを単なる「狂犬」ではなく「非常に慎重で繊細な人」だと思ったといいます。
2003年、実際にカダフィは西欧諸国との和平の道を選び、核兵器、生物化学兵器の開発を全面的に中止。国際査察を無条件に受け入れました。カダフィの平和路線への転換を暗示するような廣淵さんの深い洞察力。この本にはこのような彼の深い洞察が随所に見られます。
■ 世界の「ツボ」を心得よ
深く共感したのは、「エリートと中産階級についての思い違い」というくだり。ここで廣淵さんは、日本にエリートはいないと断言。日本でエリートといわれるのは一流と呼ばれる学歴やキャリアをもつ秀才のことであって、真のエリートではないというのです。
そして廣淵さんは、真のエリートとは、何が正義かを知り自分の人生を犠牲にして国のために奉仕することを喜びとする、気高い勇者のことをさすと語っています。廣淵さんは、その支柱がノブレス・オブリージュの精神であるとして、日本にはこの精神を持つ人材があまりにも不足していることを嘆いています。
日本にもかつて高い志を持ったエリートはいたはずです。私も、混沌とする日本の変革のためにも、今の若者のなかに次世代のリーダーとして必要な正しいエリート意識を育てることが重要だと考えています。
また廣淵さんは、今の日本人に欠けているのは洗練された知識。 つまり人々の間に世界情勢を把握する「知的装備・精神的部品」が欠落しているといいます。
世界の成り立ちを知るヒントとなるのは国際情勢の「ツボ」。廣淵さんはこの「ツボ」を押さえておけば、その詳細を知らなくとも、世界を大きく見誤ることないといいます。 ただ、現代の日本人は国際情勢のツボを押さえるどころか、ほとんど無関心であるのが現状。
それでも廣淵さんは 「日本がいまや直面している困難の多くは、『教養があれば解決できる類いのもの..... 』、それも『国際的な教養』があればなおいい』と読者にはっぱをかけます。この本は読者の好奇心をくすぐるように、メディアではほとんど語られない情報を網羅し、世界の大きな流れを日常に引き寄せて語っています。
国際情勢のツボを押さえながら国際舞台で確固たる判断基準を持って立ち振る舞う。そういう日本人が増えてくれば、日本の将来に希望の光が差し込むことは間違いないでしょう。世界を舞台に活躍するPRパーソンには必読の書かもしれません。是非、ご一読することをお勧めします。
2008年01月19日
心に残る本 淵田美津雄自叙伝
~戦争と平和、人生を2度生き切った男
「トラトラトラ(我奇襲ニ成功セリ)」。1941年12月8日、日本軍による真珠湾奇襲攻撃の成功を機上から打電したのは淵田美津雄。真珠湾攻撃で斬新な戦略を構想し、空母艦隊による第1次攻撃隊を指揮した男です。
本書は第2次世界大戦における名指揮官と名を馳せた淵田が晩年に書き残した自叙伝「夏は近い」を中田整一氏の編纂で初めて活字化されたもの。そこに描き出されているのは、凛とした冴え渡る知性と卓越した行動力、そして人間として温かみを持ち合わせた男の生きた戦争と平和です。真珠湾攻撃から66年、その壮絶な一生が精緻に自らの言葉で明らかにされます。
■ 全てを目撃した、ただ一人の男。
本書は6部からなり、淵田の生い立ち、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦の戦略の失敗と大敗、占領下での日本、キリスト教への回心という構成で展開します。
奈良県の山に囲まれた小さな村で幼少を過ごした淵田少年が、大海原を駆け巡る海軍兵に憧れ、大志を胸に軍人へと成長。1920年代から空軍の重要性に気づき飛行将校を志願。1941年には空戦隊参謀から2度目の空母赤城飛行隊長へと就任。真珠湾攻撃の戦略構想に関わることになります。
そして真珠湾攻撃における第1次攻撃隊を360機を率いて指揮します。その後マレー沖海戦勝利のあと、日本が大敗したミッドウェー海戦では、病に倒れ作戦に参加できなかったことを悔やみつつ、沈没する空母から九死に一生を得ました。史上名高いレイテ湾突入作戦を、連合艦隊参謀として構想。広島、長崎では原爆投下された翌日には爆心地入りし被害調査を実施。そして戦艦「ミズーリ」号での降伏調印式に出席し、戦争の終焉を見届けました。淵田は、戦争の始まりと終わりを目撃したただひとりの男となったのです。
淵田に一貫していたのは柔軟性のある合理的な戦略。具体的には母艦航空兵力の集団攻撃とその統一指揮や相手の意表をつく心理戦でした。
1930年ロンドン海軍軍縮条約で日本に許された大型巡洋艦や潜水艦の軍備制限は、対米69.7%。そこで日本は航空兵力増強と航空母艦数の拡充へ方針転換。開戦当初の空母保有は、日本が10隻、米国、英国共に8隻と、日本は米英を凌ぐ空母艦隊を保有していたのでした。
真珠湾攻撃の折、赤城を旗艦とした独立した6隻による空母艦隊(南雲艦隊)を編成したのは日本だけ。これまでの索敵偵察や戦艦部隊の補助的な攻撃力としてではなく世界に先んじて空母主力の発想を実現した淵田の構想による勝利でした。にも拘らず日露戦争以来の日本海軍の戦艦への執着や司令官の縄張り意識が原因で、南雲艦隊は2分割され、その後の戦いの中で、合理的かつ立体的に戦局全体を統一指揮する戦略構想ができぬまま時が経過していきます。一方で米軍は、マレー沖海戦で淵田の率いる航空攻撃隊(南雲艦隊)により戦艦が壊滅。空母の重要性を認識した米国は即座にその増強に注力し、正確な情報収集と空母を中心とする陸海空からの統合的な反撃でその後勝利を収めていきます。
戦略構想の場面や戦闘シーン、ミズーリ号上での調印式での憤りなど、淵田の心情と見た者にしか語れない情景が迫力を持って静かに、みずみずしく、そして率直に描き出されています。
■ 信じて仕えるひたむきな姿勢
天皇の象徴化と公職失職。戦後淵田が体験したのは、精神的支柱を失った深い喪失感でした。裸一貫で戻った郷里で、山で木を切り出し独力で住み家を建設、孤独感と自己との対峙を強いられながら農業を始めるのでした。
そんな時、米国での日本人捕虜収容所の実態調査で耳にしたある米国人少女の話が彼の心を揺さぶります。それは、フィリピンで日本兵に殺された宣教師であった彼女の両親が、「父よ、彼らを許したまえ」と祈り殉教したことを知り、敵をも愛する心を実践する看護師として日本人に献身的に奉仕した事実でした。
後に淵田は聖書の中の1節に「父よ、彼らを許したまえ、その為す処を知らざればなり(ルカ23・34)」を見出し愕然とします。その場でキリスト教への回心を決意。その日1950年2月26日を自ら第2の誕生日とし、平和の伝道者として憎しみの連鎖を断ち切るための新しい道を突き進みます。
受洗後の52年から引退する67年まで、淵田は日米を中心に世界各地で伝道活動を精力的に展開します。日本への復讐を誓ったドゥーリトル爆撃隊(真珠湾攻撃の反撃のため1942年4月東京初空襲を敢行)捕虜兵や米太平洋艦隊司令長官であったニミッツ元帥とも友好の再開を果たします。
引退後は、自叙伝の執筆活動に取り組みますが、完成前の1976年5月30日、糖尿病の合併症により74歳でこの世を去りました。その膨大な資料には中田整一も圧倒されたといいます。
淵田はまた名文家と呼ばれていたようです。日本軍の敗戦色濃いレイテ作戦で、神風特攻隊編成に反対した連合艦隊淵田航空参謀が、上官から請われて書かれ特攻隊員に下達された感状(特攻隊員を送る言葉)があります。「・・・悠久の大儀に殉ず。忠烈萬性に燦たり」。漢学の素養が遺憾なく発揮されている彼のこの言葉は、参謀長の草加龍之介中将をうならせるほどでした。
その人生で、いつも何かを信じひたむきに仕える姿勢を貫いた淵田。戦後「地球上の人類は1つ」と信じ生きた淵田からの平和へのメッセージは、紛争の絶えない21世紀の私たちの住む地球へ警鐘を鳴らしています。
400ページの厚い本ですが、現代と違った漢字使いも面白く一気に読み進められます。20世紀を生きた偉大な戦略家の一生に触れてみてはいかがでしょうか。
2007年12月22日
心に残る本 12 『新約聖書』
~不安な現代人の心を癒す永遠のベストセラー
こんにちは。井之上喬です。
今年もクリスマスの時期が到来しました。皆さん、いかがお過ごしですか。
クリスマスはイエス・キリストの誕生日。その前夜をお祝いする日(24日)がクリスマス・イヴです。キリスト者にとっては、新しい一年の始まりを意味するお祝いの日。今日は、その誕生以来多くの人の心を癒し続ける、『新約聖書』をご紹介します。
■ 聖書の教えはPRの原点
聖書に示されているのは、「どう生きるべきか」という人間の在り方に関する本質的な問題に対するソリューション。この世界で最も多くの人に読まれている聖書は、旧約聖書と新約聖書からなり、旧約つまり「旧い契約」とは、イスラエルの民がヤーウェ(神)と結ぶ契約を意味し、新約つまり「新しい契約」はイエスの誕生によるイエスを通して神と結ばれる契約を意味します。
新約聖書は1世紀に27巻がそれぞれ別に記述され、後に編纂されて誕生。その構成は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書、イエスの昇天後、イエスの使徒による福音宣教を書き記した使徒言行録。これらの歴史的な記述に加え、使徒たちの書簡集とヨハネの黙示録から成ります。
その根底を貫くのは、神による深く果てしない愛とその神への完全な愛。そして「隣人を自分のように愛しなさい(ルカ10章11節)」という隣人愛。
意外なことに、聖書の世界とパブリック・リレーションズはとても深いところでつながっています。というのも、米国で登場・発展したパブリック・リレーションズの思想的な原点は、新約聖書の聖パウロの書簡集にあるともいわれているからです。
またPRの倫理をいち早く記述した米国のPR専任研究者レックス・ハーロウ(Rex Harlow)は、 倫理の重要性と有効性について、黄金律とも呼ばれる「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7章12節)」を引用して記述しています。
そして現在は大衆扇動という悪い意味で使われるプロパガンダという言葉も、神様が与えてくださる奇跡を伝え歩く福音宣教を意味するプロパーゲートという言葉が語源にあります。
■ 御言葉はあなたの近くに
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある(ローマ 10章5-10節)」
私達は自分の力ではうまくいかないとか、自信をもてないなどと思うことがたくさんあります。しかし、ヨハネが書簡の中で「神は愛です(ヨハネの手紙4章6節)」と宣言しているように、私たちの中に愛の種が一粒でもあれば、自分の力を超えた愛の力が自分に働いていることがわかります。
普段私たちは、大きな存在からどれほど多くの恵みを戴いているのか気づいていません。聖書を紐くとき私たちは、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる(マタイ28章20節)」といわれたイエスに触れ、その豊かな恵みを目の当たりにします。またその愛の深さを知った人の心の中には命の尊さや感謝の気持ちが芽生えてきます。
日々の暮らしの中のつらい思いやネガティブな思いを全て捨て去り、澄み切った青空のような気持ちを運んでくれる聖書。オリジナル版であるギリシア語からラテン語を経て今日では日本語の口語訳を初め、実に世界で370を超える言語で出版されています。ちなみにドイツのグーテンベルグが1456年、世界初の活版印刷機械で最初に印刷したのは聖書。
興味のある方は、『新約聖書』(新共同訳)を是非一度手にとってみてください。
現在難民と呼ばれる人たちの数は世界で3800万人(国連難民高等弁務官事務所/UNHCR「世界の難民状況 2006 年」より)を超えています。北半球の冬を耐え忍ぶ貧しい人々に思いを馳せ、私たちがいつも多くの恵みを戴いていることに感謝し、静かに聖なる夜、クリスマスを過ごすのもいいかもしれません。
皆さんのクリスマスが、恵み深いものとなりますように。
メリー・クリスマス!
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好評発売中の『パブリック・リレーションズ』
(井之上喬著:日本評論社)第3刷が発刊されました!
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2007年10月19日
心に残る本 11 『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。
「かって、とびきり美しく温かい心を持った、ひとりの上質な日本人がいたことを思い起こすのです。それは、西郷隆盛です。日本人が本来持っていた『美しさ』『上質さ』を想起させるのです。」
本の扉を開くと、最初にこのことばが目に飛び込んできました。著者稲盛和夫さんの熱いメッセージです。
今年は西郷隆盛(1827~77年)生誕180年、没後130年にあたる年。先日、鹿児島に生まれ、少年時代より西郷の思想を人生のバックボーンとしてきた京セラ名誉会長、稲盛和夫さんが『人生の王道~西郷南洲の教えに学ぶ』(2007日経BP社)を出版されました。
この本は、西郷が西南戦争(1877年)に立つまでに遺した『南洲翁遺訓』全41条を稲盛さん自らの経営者としての人生に照らし合わせて読み解いた作品。日経ビジネスで大反響を呼んだ連載「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」を大幅に加筆修正して書籍化したもの。今回はこの本をご紹介します。
■ 「敬天愛人」
遺訓24条「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
西郷隆盛は、江戸城無血開城や廃藩置県断行などの政治的難題を見事に解決した明治維新の立役者。新政府で要職に就いた西郷ですが、政府内での意見対立から下野。郷里鹿児島で私学校を創設しその思想や哲学を生徒らに教えました。
1877年その生徒たちが新政府を相手に決起。西郷は不利な状況を承知で生徒らと共に7カ月に渡る西南戦争を戦い、最期の地、鹿児島市城山にたどり着きます。約4週間の戦闘の末、同年9月24日政府軍により被弾し自刃。享年50歳でその生涯を閉じました。
「南洲翁遺訓」(南洲は雅号)にはあるエピソードがありました。幕末に西郷は、官軍と戦い敗れた旧庄内藩(現山形県)に対し、その処罰を藩主と一部藩士のみの謹慎に留め、最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士として敬意を持って処遇しました。これに感銘を受けた旧庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、明治に入り即座に薩摩遊学を計画。旧藩士70数名を引き連れ鹿児島を訪問、直接西郷の教えを請うたのでした。「南洲翁遺訓」は、旧庄内藩の有志が西郷から直接聞いた教訓を明治時代に一冊の本にまとめたものでした。
著者の稲盛さんはこの41条におよぶ遺訓を「無私」「試練」「利他」「大儀」「立志」「希望」など、12の章に分けて語っています。その要素は、どれ1つとっても今のリーダーに欠かせない能力や資質。 著者は西郷の思想を通して、相次ぐ不祥事や不気味な事件がメディアを埋め尽くす混迷の時代に、日本が一番必要としているバックボーンとは何かを提示しています。
一番始めに目に飛び込んできた言葉は「敬天愛人」。これは私の執務室にもある書で、聖書の一節「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」に示されている黄金律にも通ずる言葉です。
稲盛さんは「天を敬うとは、自然の道理、人間としての正しい道、すなわち天道をもって善しとせよ、つまり、『人間として正しいことを貫く』ことであり、人を愛するとは、己の欲や私欲をなくし、人を思いやる『利他』の心をもって生きるべしという教えです」と解説しています。
稲盛さんは西郷の思想を象徴するこの言葉「敬天愛人」を京セラの社是としてきたといっています。京セラの創業期、稲盛氏は経営経験のない若干27歳のベンチャー企業経営者として悩みぬいた結果、「人間として正しい道を貫くこと」を全ての物事の判断基準に据えることを決心。その時目に入ったのが、当時オフィスとして間借りしていた宮木電気の社長から贈られた「敬天愛人」の書。そしてこのとき稲盛さんは、「敬天愛人」を社是に掲げることを心に決めたといいます。
この言葉はインターメディエータとして様々な難題に立ち向かい、相互の利益を実現させる役割を持つパブリック・リレーションズの実務家にも心に刻んでもらいたいものです。明確な行動基準を持つことで、どのような状況でも柔軟な対応と速やかな判断を促し、必要とあらば自らを修正することを容易にすると思われるからです。
■ 美しく温かい心をもった、上質な日本人
西郷は、旧庄内藩に対する降伏時の処置や負け戦を承知で生徒の気持ちを重んじ共に戦ったその行動に見られるように「徳」だけでなく「仁」も重んじた人でした。
遺訓39条で西郷は、才識(才能と識見)と仁徳の大切さに触れています。その言葉を要約すれば、真心があれば世の中を動かし素早く行動でき、才識があれば広く治めることができるから、才識と真心が一体となったとき、全てはうまくいくということです。
稲盛さんは、現在の人は才識ばかりを求めがちであるが、至誠の心がなければ目先の利益に気を取られ、継続的な成功を収めることは不可能だと付け加えています。
このバランスは次世代を担うリーダーに不可欠な要素です。私は頻発する一連の不祥事の根本的な問題解決も、至誠の心つまり倫理観を個人や組織の内部に育てること無しには有り得ないと考えています。
私の父も鹿児島出身。数年前に私は父の故郷鹿児島の市内にある、城山から程遠くない西郷隆盛が祀られている南洲神社を訪れました。境内には隆盛を始め桐野利秋、村田新八ら西南戦争を戦い志半ばで逝った2000を超える志士たちの墓地があります(写真)。その中で聳え立つ西郷隆盛の巨大な墓石とその背後の墓石群を目の前にしたとき、その強烈なエネルギーに圧倒されたのを今でも鮮明に覚えています。

京セラ、KDDIを創業し継続的な成功を収めてきた稲盛さんが、世情の乱れを危惧し、西郷の精神を再び世に広めたいと記された本書。そこで強調されているのは、「南洲翁遺訓」に示される精神的な豊かさや美徳、そして品格を取り戻すことの重要性です。
とびきり美しく温かい心もった上質な日本人、西郷隆盛が百数十年の時を超えて語りかける言葉は、私たちの心の奥に響くものばかりです。一度手にとってみてはいかがでしょうか。
2007年09月15日
私の心に残る本10 『息子よ、ありがとう』
先日ある本を手にとってふと、『千の風になって』を思いだしました。その素晴らしい言葉は『息子よ、ありがとう』という鄭 根謨さんが書いた本にありました。その本は次のような言葉で始まっています。
「私が死んでも涙を流さないでください。ただ祈ってください。私にとって、死は天国の学校に入学するのですから。」
著者の鄭 根謨(チョン・クンモ)さんと出会ったのは2年前。私の所属するある会が毎年8月、東京で開く国際親善会でのことです。鄭さんはそのなかの日韓友好懇談会に明知大学(ソウル)の総長として出席していました。今年も鄭さんはこの会合参加のために来日しました。初日の歓迎夕食会で、鄭さんはご自身が書かれた本の日本語訳が出版されたことを紹介しました。直筆で書かれたその本の題名は、『息子よ、ありがとう』(2007 イーグレープ)。
■ 天才の名をほしいままに
いつも穏やかな笑みをたたえる鄭さん。それまで大学で総長をしている鄭さんとしか理解していなかった私は、本を読むまで殆んど彼がどのような人なのか知りませんでした。
彼は母国韓国ではもちろん、世界的に著名な物理学者だったのです。本の前半は、彼の少年・青年時代が生き生きと描かれています。
1939年ソウル市に生まれた鄭さんは幼少の頃から神童とよばれ、中学、高校ともに首席で入学。高校を飛び級でわずか4カ月で終え、首席でパスした検定試験のあと、ソウル大学物理学科に次席で合格。同大学院の修士課程を修了後、60年には当時の李承晩大統領の肝いりで国家代表留学生として国費でミシガン州立大学に留学。入学資格試験で最高点をとり修士課程を経ずに直ちに博士課程。半年で終了し、62年に同大学で理学工学博士号を取得。博論のテーマは『分子構造を量子力学で解くことに関する研究』で、この論文は10年後の70年代の宇宙探索時代の「地球以外の惑星に水は存在したか」という問いに対する理論的ベースを提供するもとになったといいます。
その後24才の若さでフロリダ大学の助教授に就任。あまりの若さに地元メディアが「少年教授がフロリダで誕生」と一斉に報道。しかし研究への情熱が強かった鄭博士はその後、プリンストン大学やMITで核融合の研究に没頭します。67年ニューヨーク工科大学で准教授に迎えられ、核融合研究所を創設し責任者になります(後に教授となる)。
やがて鄭さんは、韓国の科学技術強化のための韓国科学院(理工系大学院)設立構想を実現させるために10年振りに帰国。71年、同科学院開設に伴い若干31才で副院長に就任。その後同国で当時最年少の大臣、科学技術庁長官に就任します。93年には高等技術研究員を創設するなど、韓国の科学技術の発展の基盤を築きました。
また国際舞台では、89年にIAEA(国際原子力機関)の総会議長に選出され、世界の科学技術担当の責任者を一同に集めた世界科学技術長官懇談会を開催。現在も大学総長の傍ら、韓国科学技術アカデミー委員長や世界原子力アカデミー会員などの要職につき、物理学の第一人者として国際的に活躍しています。
■ 自分の腎臓を愛する息子へ
「ある日、神は生きることに疲れはてた私の肩を軽く叩きながら言われた。『愛する子よ。小さな十字架を背負って行くお前の息子に感謝しなさい』」
数々の輝かしい経歴を持つ鄭根謨さん。順風満帆に見える彼の人生にも、様々な試練や困難が降りかかりました。小学6年生の時に母が他界。大学生のときには父を失うという悲劇に見舞われました。
しかし一番の苦難は、74年に慢性腎臓炎が判明した息子鎮厚くんとのことでした。難病のために80年にはご自身の左腎臓を息子に分け与えます。鎮厚くんは、父から移植された腎臓で一時的に健康を回復するものの、長い闘病生活を経て01年に36才でこの世を去ります。この本の後半はその四半世紀にわたる息子の闘病を通して、家族一人ひとりが苦難を乗り越え、成長していく姿が綴られています。
鄭さん一家は、クリスチャン家族です。家族一人ひとりが困難を神様からの恵みとして感謝し、試練を乗り越えるたびに神様への信仰を強めていきました。そのような経験を持つ鄭根謨さんは息子さんの死に向き合い、「鎮厚の死は『悲しみ』ではなく『恵み』何度と感じる瞬間だった。」と語っています。
この本のクライマックスは、父親である鄭さんが息子鎮厚くんの危篤の知らせを受け、ワシントンの病院に向かう飛行機の中で書かれた手紙です。息子の幼いときの話、不治の病にかかった息子とのやりとり、息子の結婚、信仰について…。家族のなかで起こったさまざまなことに思いを馳せながら書かれた鄭さんのことばと思いは私達を圧倒します。
「私が死んでも涙を流さないでください。ただ祈ってください。私にとって、死は天国の学校に入学するのですから。」息子の鎮厚くんは深い眠りにつきます。
息子鎮厚くんの葬儀にこんなシーンがあります。ワシントンでの葬儀に駆けつけてくれた彼の二人の親しい友人のことです。鄭さんは、この二人のアメリカ人の鄭さんへのお悔やみのことばの中で、二人とも同じように息子を不治の病で亡くしていたことを知ります。
この本を読み終わって、その題名「息子よ、ありがとう」は、息子の病と死をとおして、神をより深く知るようになった鄭さんの、ご子息への深い感謝のメッセージなのだと気づかされました。
いつも穏やかで謙遜に振る舞う鄭さんからは不思議なほど、このような体験をした悲壮感は感じられません。鄭根謨さんは何度も襲い来る試練を信仰というバックボーンを持つことで乗り越えてきました。彼の生き様は私達に、自分を委ねることができるバックボーンを持つことの意味を教えています。
254ページの本ですが、とても読みやすく編集され一気に読むことができます。皆さん是非一度手にしてみてはいかがでしょうか。
2007年08月17日
私の心に残る本9 『ビジョナリー・ピープル』
~200人の成功者が示す成功への道とは?

こんにちは井之上喬です。
皆さんは夏休みをどのようにお過ごしですか?
今年の夏休みを私は瀬戸内海に浮かぶ愛媛県弓削島で過ごしました。島のトレードマークである石山、そして松原海岸とその入り江が見渡せる弓削ロッジでのんびり読書。手にした本は、『ビジョナリー・ピープル(原題:Success Built to Last-Creating a Life that Matters)』(2007、英治出版)。
時代を超えて成功する「企業」の条件を示した『ビジョナリー・カンパニー』(1995、日経BP出版センター)を知る人は多いはず。その共著者の一人、ジェリー・ポラスがスチュワート・エメリーとマーク・トンプソンと共に10年にわたり世界各国の200人以上の成功者にインタビュー。成功の原則を明らかにした本です。
■自分の愛することに集中する
本書に登場する人物はガンジーやグーグルの会長兼CEOエリック・シュミット、ヨーヨー・マなど幅広い分野で継続的に成功している人たち。著者はこのような人を「ビジョナリーな人」と呼んでいます。
そこに浮かび上がる共通点は、自分の愛することを生きがいとして全神経を集中し、どんな逆境にも挫けず自分の信じる道を突き進んでいること。成功という世間的な評価を手にした後も、自分の生きがいに情熱とエネルギーを注ぎ続け、継続的な目標達成をしていることです。
ネルソン・マンデラもその一人。彼は、南アフリカ共和国の反アパルトヘイト運動に参加し、1964年反逆罪で逮捕され有罪となり、終身刑の判決を受けました。収容所で彼を待っていたのは重労働や思想改造などの壮絶な圧力。マンデラはそのような逆境にも、人種差別のない祖国再建の夢を捨てませんでした。
27年の投獄生活を経て釈放されたのは1990年。なんとマンデラが71歳のときでした。彼は耐え難い苦痛を与えた政府に対し報復活動は一切せず、非暴力革命の指導者として、和解の道を選択しました。憎しみをも乗り越え、自分の夢の実現に邁進したのです。
当時の大統領デクラークと協力し、全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を2度開催。そして暫定政府、暫定憲法を作成しました。93年にはその功績を称えられノーベル平和賞を受賞。翌年には黒人として初めて、南アフリカ共和国大統領に就任する快挙を成し遂げました。
■ 弱点と向き合い受け入れる
「永続的な成功をおさめている人は、自分の人生の目的に対する答えが、情熱的な愛情、あるいは苦痛のどちらか一方ではなく、 奇妙な調和を保って両方と向き合おうとする苦労の中に埋もれている、と気付いている」
成功者はその栄光が語られがちですが、その裏には多くの苦難を乗り越えたストーリーがあるものです。どうして苦痛に耐えられるのか。それは、彼らが自らの選択や決断によって人生を築いていると自覚し、自分の人生に責任を持って生きているから。
読書障害を乗り越え成功者となったシスコ・システムズCEOのジョン・チェンバースやヴァージン航空CEOのリチャード・ブランソンなどを例に挙げて、弱点と向き合い受け入れる苦痛の中から成功への道が開かれることを示しています。
日本人はとかく自分の弱点に蓋をし、見ないふりをしてしまうことが多く、弱点を受け入れることがうまいとは言えません。しかし、それを乗り越えたところに成功があるのなら、弱点を受け入れる価値はあるはずです。
「自分にとっての生きがいとは何か」
あなただったら何と答えるでしょうか。本書は「今それがある人は実にラッキー。それがない人も、生きがいを見つけられるまで果敢に挑戦を繰り返すことが幸運への早道なのだ」と読者に訴えかけているようです。生きがいを見つけるには、自分を見つめ、全てを受け入れること。この本は、自分の追求したい仕事や人生がどのようなものなのかを見つめ直す良い機会を与えてくれると思います。
私は、パブリック・リレーションズを通して少しでも「より良い社会を築く」という目標を掲げてこれまで生きてきました。35年のキャリアの中で他の職業選択のチャンスも多くありました。しかしどうしてもこの道に戻ってしまいます。
多様なクライアントと企業トップの意識を共有して問題解決を試みる過程は、まるで様々な役柄を演じる役者のようです。実務家として様々な角度から世の中をより良い方向に変えていけることへの可能性に、大きなと刺激と喜びを感じているからかもしれません。
今年の4月、弓削島に住む私の叔父が96歳の誕生日を迎える前に他界しました。入院する直前まで、一人で自炊し、自転車で島中を駆け巡り、日経新聞に目を通し、毎日日記を書くほど元気快活に生きていた叔父。
叔父は私が島に帰るといつも励ましの言葉をかけてくれました。そんな叔父の姿が見られないのはとても寂しいことでした。
どこまでも澄み渡る青い空の下、92歳の叔母と別れを惜しみ、今年も私の弓削島での夏が終わりました。
2007年08月03日
映画『ヒロシマナガサキ』が私たちに語りかけるもの
毎年8月、この時期になると必ず、日本が経験した歴史的な日が訪れます。それは、広島・長崎原爆投下の日、そして終戦記念日。広島と長崎では、あのピカッという一瞬の光から発された放射線で約60万人が被爆しました。その85%は一般市民でした。
普通の人々が犠牲になった原爆。人の命を通して「原爆とは何か」を語りたい。日系3世の映画監督、スティーヴン・オカザキは25年間の構想を経てこの惨劇をドキュメンタリー映画として制作しました。『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki)は、14人の被爆者と原爆投下に関与した4人のアメリカ人の生の声を通して、そこで何が起こったか、今でも何が起きているのかを浮き彫りにしています。
■10人の若者全員が45年8月6日を知らなかった
監督のスティーヴン・オカザキは1952年生まれ。カリフォルニア州で育った彼が原爆に関心を抱いたのは81年、サンフランシスコで被爆者に直接会ったのがきっかけ。 その後、英訳『はだしのゲン』(中沢啓治著)を読み衝撃を受け、広島、長崎の原爆投下についての関心を深めていきます。
91年には『待ちわびる日々』でアカデミー賞ドキュメンタリー短編賞を受賞。95年には全米国内での猛反発により中止されたスミソニアン博物館での原爆展に伴う映画製作が中止に。その後も彼は精力的にドキュメンタリーを制作。2005年には今回の『ヒロシマナガサキ』の序章ともいえる中編『マッシュルームクラブ』でアカデミー賞にノミネートされました。
「被爆者の話す言葉にこそ、真実がある」と考えたオカザキ監督。戦後60年、被爆した生存者たちが高齢となりその数が減っていく中、日本で500人以上の人に会い、取材を重ねました。原爆投下の政治的、学術的解釈をあえてそぎ落とし、彼らが体験した事実を通して語られる言葉には静かで強烈なメッセージが込められています。
私自身、小学校1年の夏から2年の夏までの1年間を広島市の爆心地近くに住んだ経験を持っています。原爆投下から6-7年経っていましたが、クラスメートにケロイドの傷跡を残した人が何人もいたのを覚えています。映画の中で、生存者の残した絵や当時の記録フィルムを見ていると、いつも笑顔だったクラスメートの苦悩が浮かび上がってくるようで、とても他人事とは思えませんでした。
愕然としたのは最初のシーン。監督が渋谷の街を歩く若者に1945年8月6日に何が起きたかを質問する場面です。 10人のインタビューの中で、一人もその質問に答えられる若者はいませんでした。歴史の風化をいきなり突きつけられました。
■体の傷と心の傷、両方の傷を背負いながら生きている
この映画には私が見たこともない衝撃的な映像もありました。
これまで日本政府は、太平洋戦争についての検証と総括を、国際社会の理解を得るかたちで十分に行なってきたとはいえません。また無差別爆撃となった原爆投下による被害実態を外国の指導者やその国民に伝える努力も怠ってきたといえます。
諸外国との対話(双方向性コミュニケーション)を通して、「原爆がいかに人間の生命や人生をも破壊してしまう凄しいもの」なのかに対する、アピール努力が不足していたことは否定できるのもではありません。このようなパブリック・リレーションズ不在により、国際社会から日本の被爆の実態が理解されずに今日に至っているともいえます。
映画の中で「その気になったら、知識と金さえあれば誰でも造るだろう」と原爆開発に携わった一人の米科学者の口から発せられた言葉は、世界の行く末を暗示しているようでした。
現在、世界では広島に投下された原子爆弾の40万個に相当する核兵器が存在していると言われています。原爆の真実を世界に伝えていくことは、唯一の被爆国である日本が人類の未来に対して負っている重大な責任だと思うのです。
『ヒロシマナガサキ』は被爆60周年の05年、アメリカHBOドキュメンタリーフィルムの依頼で製作が開始されました。HBOは、4000万人以上の加入者を持つ米国大手の有料ケーブルテレビ。この映画はヒロシマの原爆投下日にあたる今年の8月6日、全米でテレビ放映され、その後約1カ月間リピート放送される予定です。HBOによりDVDの販売もされています。
日本でも7月下旬から東京・岩波ホールや大阪・テアトル梅田など、全国で順次公開されています。
抑制の効いた作品に仕上げた、スティーヴン・オカザキはサンフランシスコで被爆者に会うまで、いまなおその後遺症に苦しむ人々が存在することへの認識はなかったといいます。
1945年8月のあの日、人生が一変してしまった被爆者たちにとって戦後はまだ終わっていません。
「体の傷と、心の傷、両方の傷を背負いながら生きている。苦しみはもう私たちで十分です、と言いたいですね」と、一人の被爆者の最後の言葉は全てを語っていました。
戦争で命を落とした犠牲者の魂が永遠に安らかでありますように。
2007年07月20日
魂に触れるハワイアン
海の日は毎年恒例のナレオパーティ。新高輪プリンスホテル「飛天」の間の螺旋スロープを下りればそこは別世界。今年、第11回目を迎えるこのハワイアン・パーティに約700人のお客さまをお迎えし、華やかにその幕が開けられました。
■ 癒しの空間、ナレオパーティ
私のバンド「ナレオウェイブ」の出演は序盤の2番手。今回は“Twilight in Hawaii”、“Wave”、“My Little Glass Shack in Kealakekuai, Hawaii”、“Sweet Someone”を演奏しました。
3曲目では、私の教え子である政経学部4年生の森田江美さんも所属する早稲田大学ハワイ民族舞踊研究会によるフラダンスとのコラボが実現。27人のフラガールが、しなやかで躍動感あふれる踊りを披露しました。1年ほど前からプロの先生による指導を得た成果もあり、その急成長ぶりに感嘆。
昨年上映された映画『フラガール』の影響で、ハワイアン・ミュージックやフラダンスが再びブームを呼んでいます。今回のパーティに参加してくれた私の教え子や新社会人の方々も癒しの音楽ハワイアンをとても気に入ってくれた様子。
癒しのハワイアンといって私の頭に浮かぶのはケアリイ・レイシェル(Keali’i Reichel)。沖縄のグループBEGINの「涙そうそう」のカバー曲で、日本でも最近注目されるようになった世界的なアーティストです。
■ 魂の歌 ケアリイ・レイシェル
マウイ島出身のケアリイは、17歳からチャント(詠唱)を独学で学び、19才で自身のフラ団体(halau)を結成。ハワイの伝統と文化をしっかり押さえた彼の歌声は、ハワイの自然のように美しく澄みわたり、様々なメッセージを私たちの心に刻みます。
1995年リリースの彼のデビューアルバム、“Kawaipunahele”は当時全米ヒットチャートのトップにいたマドンナを抜いて第1位を獲得し、ハワイアンとして空前の大ヒットを記録。2006年には来日し東京国際フォーラムで東京フィルハーモニー交響楽団とのコラボレーションを実現しています。
ケアリイとの出会いはいまから4~5年前。 ナレオの先輩から頂いたオムニバスCDに収録されていました。あいにく参加アーティストのカードを紛失してしまい、彼が誰であるのか、また曲名すら判りませんでした。ただその伸びのある声と穏やかで美しい旋律が気に入り、車のBGMとして楽しんでいました。
こうして数年が経過。昨年ホノルルに立ち寄った際、地元のタクシードライバーにこのアーティストのイメージを伝えると、「それはケアリイ・レイシェルに違いない」とのこと。私は即座に地元のレコードショップで彼のCDを10枚ほど購入したのです。
帰国後、購入したCDを5~6枚探したところでギブアップ。10枚ものCDが私の車のトランクで半年眠ることとなりました。今春、自宅のCDを整理していると、オムニバスCDのカードがひょっこり出てきました。そのカードから、その曲がケアリイの“Meke A Ka Pu'uuwai”であると判明。早速CDを探索すると2005年リリースの“Keali'i Reichel Collection One KAMAHIWA”に同曲が納められていました。まるで顔を知らないペンフレンドと初めて会ったような感動的な出会いでした。
全体をグリーンのトーンで精緻に仕上げられたこのアルバムは、過去の彼のアルバムから選曲したCD2枚組のベスト・コンピレーション。彼の母に捧げられた歌で始まるこのアルバムでは、トラディショナル・ハワイアンからポップスのカバー曲までケアリイの幅広いサウンドを堪能できます。
私の一番のお気に入りは、あの何年もかかって捜した“Mele A Ka Pu'uwai”。敬愛する師への贈り物として書かれたこの歌には、師への深い愛情と師の導きに対する感謝の気持ちが込められています。
1枚目の4曲目にあるノリのいい“Ipo Lei Momi”には、話題のウクレレ・アーティスト、ジェイク・シマブクロが参加。次の5曲目には沖縄ソング「涙そうそう」のカバー曲“Ka Nohona Pili Kai”が収められています。どの曲も魂に語りかけるように奏でられ、乾いたアコースティック・ギターの音とケアリイの声に、心がスーッと洗われていくようです。
癒しの空間、ナレオパーティの会場には、拙著『パブリック・リレーションズ』の出版責任者であった日本評論社の守屋さんも駆けつけてくれました。今回、同社より小林正巳著『ウクレレ快読本』(2007年、日本評論社)が出版されました。同書は、ウクレレの奏法だけでなくウクレレの歴史や奏者の横顔などを詳細に紹介。練習用CD付きのこの本は、ジェイク・シマブクロも推薦。
今年は早稲田大学創立125周年の年。大きな節目の年に行われたナレオパーティも無事に幕を閉じました。去年はバンドのメンバーの八木潔さんが急逝しました。今年は彼の娘さん、春日さんが私たちと彼との思い出の曲“Wave”(ボサノバ)をステージでシェアしてくれました。この曲では生前の彼の電気ウクレレ・ソロはスチールギター担当の北原忠一さんが弾きました。娘さんの唄は私たちの想いとともに天国の八木さんの魂に届いたでしょうか….。
2007年07月06日
私の心に残る本 8 加藤仁の『社長の椅子が泣いている』
ホンダとヤマハ。戦後の高度成長期に世界的に成長した2つの企業において、1970年代に兄弟揃って実力で経営トップに就任した河島喜好さん(ホンダ2代目社長)とその弟、博さん。弟の河島博さんが亡くなって3ヶ月がたちました。
今から1年ほど前、彼の半生を描いた長編、『社長の椅子が泣いている』(2006 講談社)が出版されました。河島博さんは強烈な個性をもつ2人の経営者の下でその類まれな経営手腕を発揮したビジネスマン。戦後の高度成長からバブル崩壊へと激しく変化する時代を駆け抜けた偉大なテクノクラートでした。
その波乱万丈たる人生を描いたのは、サラリーマンの定年後の生きざまを描く作家として知られるノンフィクション作家の加藤仁。
■その誠実を











